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「戦争は平和である」難解な安倍語の素は New Speak

高橋ヨシキさん


 安全保障法制の議論で首相が繰り返す「レッテル貼り」という言葉。「レッテル貼り」と、その言葉を生み出す社会と政治について、デザイナー・映画ライターの高橋ヨシキ氏に聞いた。題して「積極的平和主義と『1984年』」。

 ――「レッテル貼り」という言葉、どう思いますか。

 「たとえば、今、映画でも本でも『分かりやすい』、というのが褒め言葉になっています。一方で『意味が分からない』と怒る人もいます。瞬時に理解できる、あるいはできた、と思えることがすなわち〈良いこと〉である、という勘違いが広まっていることと無関係ではないでしょう。『レッテル貼り』のように、物事を不必要に単純化する『分かりやすい』言葉は、その実、何も伝えていないことが多々あるにもかかわらずです」

 ――安保の議論は細かくて難しい。分かりやすい議論は必要ではないですか。

 「と言って、『レッテル貼り』の応酬では議論が深まらない。今の政治は『キャッチフレーズ政治』のなれの果て、に思えます。複雑で難解な議論を悪とみなす風潮には、論理で対抗するしかありません。分かりやすいキャッチフレーズや『レッテル貼り』ばかりで構成された乱暴な議論は、きちんとした論考に太刀打ちできないはずです」

 ――難解な議論でもやっておくべきだ、と。

 「当然でしょう。徒労に感じられても、難解であろうと、本質を突いた論議をした人がいた、ということが重要です。たとえば人種差別や性差別などは感情的、情緒的なやり方では肯定できても、科学的な、あるいは論理的な反証には耐えられない。そこでたとえばナチスは、人種差別を疑似科学としての優生学で実証しようと試みたのですが、当然そんなものは成り立たず、退けられました」

 ――安全保障の議論を巡る言葉については、どう思いますか。

 「安倍晋三首相が唱える『積極的平和主義』というフレーズがあります。あれは完全に〈ニュースピーク〉だと思っています」

 ――ニュースピークというのは何ですか?

 「英国の作家ジョージ・オーウェルが1949年に発表した、近未来のディストピア(反理想郷)を描いた小説『1984年』に出てくる言葉です。この小説はこれまでに2度、映画化されています。物語の舞台は全体主義的な『党』が独裁する監視国家『オセアニア』です。『党』は『戦争は平和である』『自由は屈従である』『無知は力である』といった、矛盾したスローガンを用いることで言葉から意味を剝ぎとり、国民から考える能力を奪っている。これを〈ニュースピーク(新語法)〉と言います」

 ――確かに「積極的平和主義」、みたいですね。

 「『積極的平和主義』は『汝(なんじ)平和を欲さば、戦への備えをせよ』という格言をさらに好戦的に言い換えたもののように聞こえます。『戦争は平和である』という〈ニュースピーク〉と何が違うのか。逆の意味を持つ名前をつけることで意味を失わせるやり方は悪質です」

 ――ニュースピークまがいの物言いが出てきた日本は、いずれ1984年的な国になる前兆だと。

 「日本はとっくに『1984年』的な状態に突入していると思います。ディストピア社会の大きな特徴は、そこに生きる人たちが自分たちの置かれた状態を『ユートピアだと思っている』ことだからです」

 ――ディストピアが、ユートピアであるということは、つまりどういうことでしょうか。

 「巨大企業に支配された近未来の社会を描く『ゼロの未来』(15年日本公開)や西暦2700年、ゴミで埋まった地球を捨てて人類が宇宙に脱出した後を舞台にした『WALL―E』(08年同)など、近年のディストピア映画では、消費社会が維持されており、リゾート地でパーティーに明け暮れる人々も描かれていることから、一見『自由な社会』があるように見えます。しかしその『自由』は無数の規制でがんじがらめにされた偽りの『自由』です。にもかかわらず、人々は体制が発表する矛盾だらけのメッセージを疑問なく受け入れ、現実を見ることなく暮らしている。思考することを放棄しさえすれば、ディストピアはユートピアに変わってしまう、ということを描いているわけです」

 「たとえば、テレビで言われるがままに『日本は(無条件に何もかもが)素晴らしい』とか『(外国と比べて何もかもが)すごい』と胸を張る人たちがいます。彼らはユートピアに暮らしていると感じているのだと思います。疑問を持つことを放棄すれば『戦争は平和である』というスローガンも難なく受け入れることができる。体制に疑問を持たない、あるいは疑問を持つことが〈良くないこと〉とみなされるのはディストピアの大きな特徴ですが、そういうディストピア的な状況がソフトな形で到来していると感じます」

 ――安保法制が審議されている国会の委員会の名前も「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」です。

 「極めて〈ニュースピーク〉っぽい物言いですよね。言語明瞭意味不明と言われたのは竹下登元首相でしたが、安倍首相の場合はしかし、〈ニュースピーク〉にしか聞こえない言葉を多用するので、むしろ隠された本音が見えやすくなっていると思います。政治家が『馬鹿馬鹿しいほどソフトな物言い』を使う場合は、大抵、まったく逆のことを言っているからです。またナチスの例になってしまいますが、彼らもホロコーストについて『絶滅計画』などとは言わなかった。当たり前です。その代わり『東部への移送』であるとか『移住計画』と言い張った。ソフトな物言いにすることで恐るべき犯罪を粉飾しようとしたわけです。そのことで自らの罪悪感が軽減される、という効果もあったでしょう」

 ――ディストピア社会の行く末を映画はどう描いているのですか。

 「『1984年』の主人公は体制に疑問を抱いていたが故に罠(わな)にはまって逮捕されます。『疑問を持つ』こと自体が『1984年』の体制下では思想犯罪だからです。捕まった主人公は拷問によって洗脳され、完全に体制に『順応』してしまいます。考えることをやめ、矛盾に満ちた〈ニュースピーク〉を受け入れるようになる。暗然たるラストです。もちろん、ディストピアを描いた映画はなかなかハッピーエンドになりにくいものですが……」

 ――反戦や反原発など日本でも体制に疑問を持って行動する人たちがいます。市民運動に熱心な人たちを、一般の市民ではない、という半ば揶揄(やゆ)を込めて「プロ市民」という呼び方もあります。実はプロ市民も「改心」すれば幸せに暮らせるよ、というわけですね。

 「1970年代はディストピア映画の黄金期で、さまざまな思考実験が行われました。たとえば、これは60年代後半の作品ですが、『猿の惑星』(68年)では社会の欺瞞(ぎまん)や矛盾、宗教のバカバカしさといったものを、『人間と猿の立場を入れ替える』ことでくっきりと浮かび上がらせました。ディストピア映画は現実社会への告発でもあったのです」

 ――今の日本は映画を超えましたね!

 「いくらなんでも大の大人がそれは言わないだろう、と思えるような、明白に事実と反することを平気な顔で言ったりしますね。単なる嘘(うそ)と言ってもいいですが、そういうことを胸を張って政治家が言う。『福島の汚染水はアンダーコントロール』などと言うのが良い例です。12年の衆院選で、自民党の選挙ポスターには『ウソつかない』と書いてあったそうですが、ほとんどブラックジョークです。権力者が発する、支離滅裂で不合理なメッセージを『そのまま受け入れる』ことが『普通』だというのであれば、それはまさに『1984年』的な状況だと言えるでしょう」(秋山惣一郎)

    ◇

 69年生まれ。デザイナー・映画ライター ホラー映画を中心に映画宣伝のビジュアルデザインも手がける。NHKラジオ第1放送で映画コーナー「高橋ヨシキのシネマストリップ」を担当。近著に「暗黒映画評論 続悪魔が憐れむ歌」





















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by tabi-syashin | 2015-07-01 10:28 | colum | Trackback | Comments(0)