残雪の廊下から 栗子山 (1994.04.23~24)

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旧峠 二ッ小屋隧道から抜け出て、滑谷沢から1202m峰(大杭甲山)への南東尾根にとりつく


● 残雪の廊下から 栗子山

前回、2月に敗退した計画を再度設定しようとチャンスを窺っていた。年度替わり、娘の受験、町内会の雑務やらで とうとう今季は諦めかと思いはじめていた。ちょうどそんな時 会津の森澤さんから手紙をいただき、「こりゃ、是非にやらなきゃいかんなあ」と当初の吾妻山・春スキー計画を延期し 胸につかえているものを、この日の「探索」とした。同行は郡山の嶋津。

朝から天候は下降気味だったが 例によって東栗子トンネル横に車を停め、春の匂いをかぎながら一気に二ツ小屋トンネル(昭和9年完成)まで駆け上がった。そこは既に雪は消え、ブナや木々の新芽が萌えだしたばかり。中島君と真冬の厳しい吹雪から逃げ帰ったことなど笑って思い出させてくれる。

トンネルの入り口右側に石碑があり 万世大路完成記念と刻まれ明治19年とあった。明治天皇が奥州行幸の折にこの峠で籠から降りて休まれた場所という意味の鳳駕駐驛跡(ホウガチュウヒツアト)とも刻まれていた。明治時代はこの峠を歩いて越えたということだが 太平洋と日本海とを結ぶ重要な峠道だったのだろう。上段には山の神が祀られていた。

前回不安の中で通過したトンネルも直径1mほどの穴が天井に開いていて ドードーと水が滝のように流れ落ちていた。「なぁるほど・・・ どうりで氷柱ができるわけだ」。締まった雪の上を歩き 前回の半分程の時間でアプローチ終点となる支稜末端に着いた。案の定 とり付きの東斜面には雪がべた張りである。藪の一番薄そうな斜面に狙いを定めて突っ込んでいく。藪で体が戻されてしまうが何とか踏ん張る。C950 まで結構な急斜面だ。久しぶりの藪漕ぎに足がもたつくし、一歩踏み出すごとに跳ね起きてくる枝に頭は殴られるし、おまけに眼鏡の縁に当たろうものなら鼻の付け根がジーンと疼いてしまう。このパターンを数回繰り返すとc 950 である。

最後の薄い藪を漕ぐとポンと支稜に乗っかった。「廊下だー!」 見事に1202mのテトラ型の無名峰まで一筋の白色で繋がっていた。ザックを置いた。栗子山の1202m テトラピーク(大杭甲山)に未練がましく通い続け 三度目に「栗子逍遥」は校了となりそうである。西風が造った雪庇はそのままの形を保ちながらゴロンと東斜面に倒れており、その廊下と化した平面には幾重にもなった古雪の縞模様が描かれていた。ガスが移動しはじめ頭上いっぱいに晴天を連れて来ていた。亀裂が入って上下に分断された雪を抱え、テトラの峰は黒々とした地面を南面に残したままに 姿を現した。

早く登ってこい!と言われたも同然である。足の痙攣を抑えながら三角形の左斜面から頂点へ進み ピークを得た。頂上は意外とまるい。米沢出張営業の折に13号国道から見上げるテトラピークはいつも尖って見えていたのに・・・。春霞の彼方に飯豊が見える。吾妻の連嶺は目の前に。米沢の街並み、手前にダム湖、真下には1月にアプローチした万世大路。2月に敗退した福島側の万世大路。この峰の左右に分断され道形だけが残っていた。1キロ先の栗子山はどうか、、、何の変哲もなくただゆったりとその起伏を持ちあげていた。

こんなもんなんだろうなあ・・・吾妻と蔵王に挟まれた「名山の修飾詞を知らない山」というのは。今いる1202mテトラピークの方がよほどに自己主張している、対照的になだらかな栗子山にグチにも似た呟きを吐いてしまった。ふたたび厳冬期に来てみたい たとえ1000mであろうとこの無名な山たちがいとおしい 藪山であり道もないのでなおさらだ。透かしてようやく判る踏み跡を栗子山まで辿った。三角点は東側の藪の中にあった。

この夜は頂上台地にテントを張った。ゆったりと夜の帳を迎え、翌朝ウグイスの声に迎えられるまで至福を味わうことが出来た。下山時に西面の下山路を確認したかったがそれは藪で断たれ、あっさり往路を引返すことにした。c 950 で振り返るとテトラはガスに包まれてしまっていた。昨夜の雨で緩んだ雪窪にズボっと足を踏み込んでしまい 雪中に潜む枝に向こう脛を思い切りぶつけてしまった。それでも帰り足は速いもので 東栗子トンネルまで3時間半で済ませることができた。あとは・・・小杭甲山と七ツ森だな。





● 大野九郎兵衛と板谷峠

胸につかえてるものを ここいらで取り除こうと 旧赤穂藩城代家老、大野九郎兵衛の慰霊碑を捜しにJR奥羽本線峠駅に向かった。板谷駅を過ぎると「旧奥州街道石畳道入口」と看板が立っている。杣道に小ぎれいに石が並んでいるところだ。これを過ごしさらに数キロ進むと滑川分岐手前に至る。慰霊碑への案内板が建っている。車を下りて林に入り ちいさな川を渡り カラマツ林の中に進むと 高さが2mほどの石碑がトロッコレールの廃物に守られ?建っている。石には「明和六巳丑七月十六日 佐藤氏」と刻まれている。1769年に建立されたものである。それは米沢方面に面を向けていた。

前述に森澤さんからの手紙の件を記したが 彼の手紙には・・・
一、討ち入りに失敗し吉良殿が米沢に逃げ入ろうとした場合は待ち伏せて討つ 
二、しかし、江戸で目的が達せられたので、生涯をかけた仕事が終わったと考え自害した
と記されていた。慰霊碑横の説明案内板にもほぼ同じことが記されていた。ただ違うのは 観光協会の看板が「大野一味」と記していたこと。悪党でもあるまいに一味という字を宛がったのはいささかお粗末だなと思えた。

童門冬二著「小説 上杉鷹山」下巻(そんぴん編)に拠ると大石内蔵助と大野九郎兵衛が密議し 身内を騙してまで大野を追放した形をとったとあり米沢に潜伏しやすくするためとのことである。南会津山の会 河上さんによれば 江戸の討ち入りから逃れた吉良が必ず通るこの街道、板谷宿手前の李平あたりに樵に身をやつして潜伏していたのだろうとのことだった。

一方 津本 陽著「新・忠臣蔵」に描かれた大野九郎兵衛像は 自分の犯した罪をずうっと背負って生きて来て そのコンプレックスに苛まれ それを晴らすために この地でこの日まで生きてきた・・・ といった風だ。僕もこっちの方がシリアスでかつ戯曲的にみてカッコイイ筋書きだと思っている。

「小説 上杉鷹山」にしろ「新・忠臣蔵」にしろ、やはり小説は小説に過ぎず自分で穿ってみないことには始まらない。これから図書館に通って史資料集めと洒落込まなくちゃならないかも。宮城の岳人・深野稔生さんの言う「山は総体だぁ」、この真の意味はこんなところにあるんだろうね。山という対象物の周りに 自分で興味が持てる題材をどれほど多く用意できるか?が 己の頭の深耕をさらに図ってくれるんじゃないだろうか? たとえば「山と祈り 山と歴史 峠路考 山名考 地名考」など、山を単に登る対象として捉えるだけではなく、さらに面白味という縁取りで飾ってあげよう というわけだ。これこそ遊び方を大きく膨らます大人な考え方だと思う。




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by tabi-syashin | 2014-02-07 12:49 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(0)