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地勢図「日光 / 新潟」(再)

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南会津彷徨

幾度となく思慕の糸を放ち 幾重にもなる思いを重ねてみても
究極的満足を心に宿すことができずにいる南会津。
渋さと地味さと厳しさとを混在させ彼の山は今日も問いかけてくる。
これに応じようとする我が内なるものは「胎内回帰」という概念だけだ。

求めなければ決して明利な答えを与えてくれず、
その幽玄な山懐に立てたとして、そしてまた一種の感慨を得たとして、
それでもさらに次なる問いや焦燥が待ち構える。
一度はまったら脱出不能な循環軌道に乗せられてしまう。
一つを終えても 再びまた「憧れの淵」に立たんと思慕の波が押し寄せる。

30年を経た今でも それが私にとっての南会津でいる。





国土地理院が発行する地図  

山岳愛好家にとって 地図は山への思慕を深める重要なファクター。
とくに地形図が今のようにカラーではなかった時代、
モノクロの地図を手に取るかつての岳人たちは最大の想像力を働かせ
稜線と谷筋とを脳裏に浮かべたことだろう。 

国土地理院にて手に入れることができる地図には 
1/25000、1/50000の地形図と 1/200000の地勢図とがある。 
ここで思慕を募らせることができる地図とは「地勢図」の方だ。
とくに好きな地勢図に「日光」「新潟」がある。
この地勢図を端から端まで毎晩のように眺め その山頂をつなぎ 
ピンクの線を入れていっつもカバンに入れて仕事に出かけていた。

果てしなく続くイメージ山行がこの地勢図で簡単にできるのだ。
とくに「日光」「新潟」となれば奥只見から南会津の山々がほとんど網羅される。
この地勢図を見て夢膨らむことがないという者がいたら それは「モグリ」だw 

自分を読手側に置くだけではダメで、冒険物語の書き手に転じないと
山の物語は描けない。 
まして高いモチベーションなど維持できない。

ちなみに・・・、上に掲載したのは地勢図「日光」の一部だが、
田子倉湖から燧ヶ岳周辺はほとんど春先に雪の稜線を繋ぎ歩いている。
ピンクに塗られた山頂はかつて歩き終えた山で一応三角点を踏んでいる
(ほとんどが雪の中に埋まっていたけどw)。 
かつての山岳愛好家というのはこの地勢図で思い思いの山行を夢に見、
計画を練ったもの。今でもだけど・・・。

地勢図というのは岳人にとっては豊かな発想の素、とても貴重なのだ。
若い山ボーイや山ガールも そうでない方も 地形図や地勢図に思いを馳せるようになったら
一人前の登山家になれる(無論、なる必要などどこにもないのだがw) 
僕はかれこれ45年そう思い続けてきた だから君にもそう言える。

なんせ 他人の登った記録の美味しそうなところをツマミ食いするような山行に
キラリ輝くものは何もない。
ましてや 山を語る資格に欠落が生じるのを知っていながら 
胸など張れるものではない。

しかし 喩え他人のトレースといえ じっくり我が心に温め 想いを馳せる計画ほど 
その実行には大きな喜びが湧き上がるものだ。

手に入れることが可能なら、、、地勢図「日光」「新潟」を眺めてみよう。
そこに一本の山波や一つのルートを発見した時、、、 君の冒険物語が始まるのだ。




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今現在、国土地理院が発行する1/25000地形図(@¥250/枚)を買い求め登っておられる方はいるだろうか? 
ほとんどの方が時代の変遷に追われ、GPSやらスマホのアプリで登っておられるんじゃないだろうか?
せいぜい 昭文社の「山と高原地図」で済まされておられる、アナログユースな方がほとんどだろうか?

けっして他人のブログのトレースだけはすることのないように、、、
オリジナルな冒険は自分の心の内にあるのだから。
かつて 地勢図そのものを 夢見る道具に使っていた自分がいた。
日光 新潟、2つの地勢図が冒険の泉になった。

もっとも トレース専門ならNHKのBSをみれば充分ではあるのだが・・・(笑)








Commented by さぶ at 2013-09-26 18:25 x
積雪期に稜線をつないでいるんですね。すごいな。
大昔、田子倉から浅草岳を目指しましたが、沢が増水して引き返しました。

民宿田子倉の親父さんが、梵天まで道を開いたというような話を先輩達としていました。大皿に山盛りにしたグミを食べながら。
田子倉から檜枝岐まで歩いてみたいと思って、早40年?夢となりました。

中門岳の山名柱は風情がありますね。昔と同じものなのかな。墨がかすれ、膠の成分が風雪を防いで凹凸を作る。侘び・寂びの情緒が感じられます。
もう、こういう墓標のような標柱は少なくなりましたね。


Commented by tabi-syashin at 2013-10-09 22:36
こんばんわ。もう大分?埃の被った話ですが 田子倉ダムを船をチャーターして村杉半島に渡り、先端から取り付きました。
朝はアイゼンも安心できないほどのカリカリバーンとなり、昼はスパッツが千切れるほどの猛烈なヤブ漕ぎでした。会津朝日よりも丸山岳には興味がある会員が多かったです。 

昔 田子倉が堰き止められなかったころには檜枝岐は道行の沢(みちぎのさわ)伝いに只見との往来があったようです。記録も金山町有志で綴る「金山史談」や南会津山の会発行の「いろりばた」あたり散見できます。宜しかったら お送りしましょうか?貴重な資料です、特に「いろりばた」は 川崎精雄、望月達夫さんなどの重鎮と当時若手の成田安弘、笹川慶子さんなども在籍されて賑やかな登山の論壇たちの研究成果が盛り込まれています。(10/09 書き換えました)
Commented by さぶ at 2013-10-16 22:34 x
会報「いろりばた」の件、お申し出ありがとうございます。なにぶん貴重なもの故「金山史談」も含め、お会いする機会に拝見したいと思います。
Commented by andanteeno at 2015-10-14 21:14
もときちさん、自分は「もときち山遊記」を「山と高原地図」で探りながら、
明日への、否、いつの日かの夢を膨らませていますよ (^^)
Commented by tabi-syashin at 2015-10-14 21:42
> andanteenoさん
その夢を 抱かせてくれたのが地勢図でした。地形図ではなく、地方全体の山岳配置が地勢図から読み取れて とても楽しかった毎日がありました。30歳代後半です。仕事で辛い時も 鞄から出して しばらく見入っていましたよ(笑)
Commented by andanteeno at 2015-10-14 22:23
もときちさん、
それ・・すごく良く分かる~(・_・、
Commented by HITOIKI at 2015-10-14 23:29 x
僕の住んで居る山形市の地元の山域で山と高原地図に載っていない二つ森山と瀬の原山はたぶんブログでのトレースもないいわば自分好みのルートです。地形図と方位磁石だけで雪山を単独で歩く。山岳会の経験もない自分ですが冒険は今住んでいる所とか活字の中にもあると思うのです。それはブロガーでも山屋でも沢屋でも、、、、そんな時代のせめぎあい。お許しを。
Commented by tabi-syashin at 2015-10-15 10:57
> HITOIKIさん
実践的な積み重ねがあれば どなたにでも言えることですね。冒険物語が始まるというきっかけは書物にもあるだろうし 地域の碑にだってあるだろうし 雨乞い信仰にもあるだろうし 山岳文学の一シーンを見たさに登ることもあるでしょう。総じて 冒険を欲するのは 己の内にあるものです。喩えて 地勢図といった中には そのようなものも含めていることは僕のブログの中にたくさん書かれています。

山岳会員であるという特質・・・冒険自体の深み・厚みの度合いも、深山で罹る危惧への対処も、それを見越した計画書の記載事項という点でも、、、相当に違ってきます。その上での「想い」なので、その実現は数泊を要します そこんとこ推し量ってください。

一般論としてですが、山に向かう本質性を醸成することなしに山に向かっても 語り草にはなるでしょうけど 振り返った時に残るものがあるのかどうか という問題にもなるでしょう。同じ山岳会員でも 深耕しているものは多くありませんことも付記しておきます。岩ヤはトポの記号に目が行くし、沢ヤは滝のルートに目が行くし、釣師は魚影に目が行きます。「山を観ているか?」と自省すれば そうじゃなかった自分も居たというかつての反省も含めてです。その点では ブロガーも山岳会員も岩ヤも沢ヤも同じですね。山を総体として視る そういう深い視点が いま特に必要なのでしょう。
Commented by blackcoffee_4116 at 2015-10-16 07:55
KS
地勢図「日光」私のもボロボロです。
村杉半島から大鳥岳、毛猛山を縦走したことを思い出します。強烈な記憶です。
奥穂のピークから突き飛ばされそうになったことより強く焼きついてます。
それと三つ岩から城郭朝日まで。
春のブナの尾根を歩く爽快感が忘れられない。
Commented by tabi-syashin at 2015-10-16 08:22
> KSさん
ひと冬もふた冬も想いを越冬させ春になると実行に移す。その醍醐味が南会津にはありますね。幾畳にも重なる青のグラデーションの中で展開される、その30キロの道のりを計画し、乗り越えてゆくなどというのは痛快そのものでした。「軽薄短小」のまさに逆を行こうとするプログラムが組めるのは まさしく深い、黒い、青い森があったからでした。その想いを醸成させてくれたのはまさに1/200000地勢図「日光」でした。

「黄色い紀行文」にはタイトル以上のドラマがありましたが それも佳き肥料になりました。
by tabi-syashin | 2015-10-14 09:42 | Mount M aizu | Comments(10)