2015年 10月 14日
地勢図「日光 / 新潟」(再)
南会津彷徨
幾度となく思慕の糸を放ち 幾重にもなる思いを重ねてみても
求めなければ決して明利な答えを与えてくれず、
30年を経た今でも それが私にとっての南会津でいる。
国土地理院が発行する地図
山岳愛好家にとって 地図は山への思慕を深める重要なファクター。
国土地理院にて手に入れることができる地図には
果てしなく続くイメージ山行がこの地勢図で簡単にできるのだ。
ちなみに・・・、上に掲載したのは地勢図「日光」の一部だが、
地勢図というのは岳人にとっては豊かな発想の素、とても貴重なのだ。
なんせ 他人の登った記録の美味しそうなところをツマミ食いするような山行に
手に入れることが可能なら、、、地勢図「日光」「新潟」を眺めてみよう。
大昔、田子倉から浅草岳を目指しましたが、沢が増水して引き返しました。
民宿田子倉の親父さんが、梵天まで道を開いたというような話を先輩達としていました。大皿に山盛りにしたグミを食べながら。
田子倉から檜枝岐まで歩いてみたいと思って、早40年?夢となりました。
中門岳の山名柱は風情がありますね。昔と同じものなのかな。墨がかすれ、膠の成分が風雪を防いで凹凸を作る。侘び・寂びの情緒が感じられます。
もう、こういう墓標のような標柱は少なくなりましたね。
朝はアイゼンも安心できないほどのカリカリバーンとなり、昼はスパッツが千切れるほどの猛烈なヤブ漕ぎでした。会津朝日よりも丸山岳には興味がある会員が多かったです。
昔 田子倉が堰き止められなかったころには檜枝岐は道行の沢(みちぎのさわ)伝いに只見との往来があったようです。記録も金山町有志で綴る「金山史談」や南会津山の会発行の「いろりばた」あたり散見できます。宜しかったら お送りしましょうか?貴重な資料です、特に「いろりばた」は 川崎精雄、望月達夫さんなどの重鎮と当時若手の成田安弘、笹川慶子さんなども在籍されて賑やかな登山の論壇たちの研究成果が盛り込まれています。(10/09 書き換えました)
明日への、否、いつの日かの夢を膨らませていますよ (^^)
その夢を 抱かせてくれたのが地勢図でした。地形図ではなく、地方全体の山岳配置が地勢図から読み取れて とても楽しかった毎日がありました。30歳代後半です。仕事で辛い時も 鞄から出して しばらく見入っていましたよ(笑)
それ・・すごく良く分かる~(・_・、
実践的な積み重ねがあれば どなたにでも言えることですね。冒険物語が始まるというきっかけは書物にもあるだろうし 地域の碑にだってあるだろうし 雨乞い信仰にもあるだろうし 山岳文学の一シーンを見たさに登ることもあるでしょう。総じて 冒険を欲するのは 己の内にあるものです。喩えて 地勢図といった中には そのようなものも含めていることは僕のブログの中にたくさん書かれています。
山岳会員であるという特質・・・冒険自体の深み・厚みの度合いも、深山で罹る危惧への対処も、それを見越した計画書の記載事項という点でも、、、相当に違ってきます。その上での「想い」なので、その実現は数泊を要します そこんとこ推し量ってください。
一般論としてですが、山に向かう本質性を醸成することなしに山に向かっても 語り草にはなるでしょうけど 振り返った時に残るものがあるのかどうか という問題にもなるでしょう。同じ山岳会員でも 深耕しているものは多くありませんことも付記しておきます。岩ヤはトポの記号に目が行くし、沢ヤは滝のルートに目が行くし、釣師は魚影に目が行きます。「山を観ているか?」と自省すれば そうじゃなかった自分も居たというかつての反省も含めてです。その点では ブロガーも山岳会員も岩ヤも沢ヤも同じですね。山を総体として視る そういう深い視点が いま特に必要なのでしょう。
地勢図「日光」私のもボロボロです。
村杉半島から大鳥岳、毛猛山を縦走したことを思い出します。強烈な記憶です。
奥穂のピークから突き飛ばされそうになったことより強く焼きついてます。
それと三つ岩から城郭朝日まで。
春のブナの尾根を歩く爽快感が忘れられない。
ひと冬もふた冬も想いを越冬させ春になると実行に移す。その醍醐味が南会津にはありますね。幾畳にも重なる青のグラデーションの中で展開される、その30キロの道のりを計画し、乗り越えてゆくなどというのは痛快そのものでした。「軽薄短小」のまさに逆を行こうとするプログラムが組めるのは まさしく深い、黒い、青い森があったからでした。その想いを醸成させてくれたのはまさに1/200000地勢図「日光」でした。
「黄色い紀行文」にはタイトル以上のドラマがありましたが それも佳き肥料になりました。