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前回と同じ「山名考」を掲げた。先日は「三菱伸銅(株)山岳会」の森澤堅次さんの寄稿によるものだったが、今回は江花俊和さん日本山岳会・科学委員会委員」による山名考だ。お二人ともに南会津山の会の会員であり、地元の名士でもあられる。

森澤さんは「ホンモトイイトヨサン」と呼び 江花さんは「ホンモトイイデサン」と呼称するが どちらも同じ山である。どちらの読み方も拾えているので、一方を間違いと捉えるものではない。

この山の所在を知るにはこちらの江花さんの寄稿文によると詳細に解る。(南会津山の会いろりばた72号より抜粋)



「本家本元」という言葉がある。こっちが「大本」(オオモト)になるということを意味するが、この「本元」と冠した山名が実に面白い事と 飯豊山の剣ヶ峰や御秘所に見立てたと思われる岩が連なっていて、リンゴ大の穴を無数に持った岩窟(ハング状)がある と聞き興味を掻き立てられた。

この山は大戸岳の北東、高畑山の中腹にある。しかし「山」といってもピークではない。「高畑山の支稜の標高680mの岩稜」である。新編会津風土記によると 高畑山は昔飯豊権現を勧進せし所なりと云、毎年八月村民此れに参詣す とある。






上三寄(カミヨリ)の南外れの大川にかかる橋の手前、旧道との分岐を少し行った左の店の所から入り、すぐに右に折れる。道は田圃から急に山間に入り、闇川(クラカワ)の断崖沿いに変わる。この奥に集落があるとはとても信じられない、そんな深山の雰囲気である。

菅沼、四ツ谷、闇川の集落を過ぎ、大戸岳への道を右に見て、桑曽根、そして最後の集落の入小屋に着く。参道入口はさらに1キロ先である。本元飯豊山参道入口の小さな標識が左側にあって、少し入ると薄暗い木立の中に飯豊山の大きな石碑があった。

今にも倒れそうな鳥居をくぐる。田畑の跡地から林道を横切ると道がはっきりしてほっとする。小沢のほとりのお姥様に頭を下げてしばらく行くと杉林の登りにかかる。本当にこの先に飯豊山があるのだろうか、間違ったかな?と思ったとき 注連縄が鳥居のように頭上にあるのを観て安心した。

見上げると岩の続く急登になる。注意さえすれば危険はなく困難でもない。すぐに右に大きな岩が現れ「若木大権現」と記された木札があった。明るい尾根から再び大きな岩が現れ 幾つめかの岩を左に捲いて、無数に風化した穴のある異様な奇岩が立ちふさがる。

岩の下は広く ざらざらした白っぽい裸地で賽の河原という感じである。「一之王子大権現」、「御裏三宝大荒神」などの木札と七寸の鉄剣が祀られていた。岩の左下をまわって今にも壊れそうな梯子を上って 鎖の登りを終えると松の大木の間から社が見える。

本元飯豊山神社は 岩稜の南面の岩棚にある。幅二間、奥行き一間ぐらいで、「金躰大日大聖大権現」の木札と三十本あまりの剣が祀ってあった。社の左の胎内岩へは鎖があり、二人ぐらい入れる岩穴があった。回り込むと稜線となった。

帰路は参道とは反対側、鬱蒼とした道だが入小屋の村外れにでる。二十三夜塔と飯豊山の石碑がある。ここから車を置いた入口まで長い道を徒歩で引き返す。

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旧暦八月八日(新暦9月12日前後)が祭礼の日
村人たちがお神酒や肴を背にして登り
先達か法印が詔りを奉じて
五穀豊穣と村内安全、家内安全を祈願する










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by tabi-syashin | 2015-11-15 11:16 | iroribata | Trackback | Comments(0)






会津には古くからの地域山岳会が存在する。なかでも珍しい、職域で古くから活動する山岳会がある。「三菱伸銅山岳会」 知る人ぞ知る「会津の老舗」、職域山岳会だ。以前は玉川機械金属(株)山岳部だったが社名変更のため現行名となった。
そこでは「ふみあと」という会報誌を出しているが、その会報誌に寄せられた一文から 例によって「本元飯豊山」の文言があるので転載しようと思う。寄稿者はがっちりした体躯の森澤堅次さん。

「上三寄の町はずれから闇川をさかのぼった。10分程で菅沼、四ツ谷、高川、桑曽根、入小屋の村々を過ぎていた。闇川沿いの村々が細長いことを知った」、、、と記されており これが昭和六十年の話であるから今から20年前の話であろうか。1/25000図で845m峰、890m峰、961m峰の何れかが本元飯豊山であると記しており 文末に社殿裏手から30分ほどで890mと記してあるので それが本元飯豊山であろうか・・・この辺りの書きっぷりが 豪放磊落な森澤さんらしい。

さらに覚書によると・・・



神主を太夫様(たゆうさま)と呼び 5年に一度ずつ交代する。
今年(昭和60年、1985年)は加藤勝さんが太夫様。
加藤光雄さん宅には掛け軸が残っており、
9月7日は宵祭りがあり、18名ほどの男衆が集まるとの習わしを聞き取りしている。
祝詞は3回繰り返す
「あやに あやに ふすすくたふと いいでの おやまの かみの ねがいを おろがみ まつる」

社殿は昭和26年(1951年)8月6日の建立である。
金身体両大日大聖大権現などの御札が奉納されていた。

・・・とある。


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「会津名山案内」の大関さんによると・・・762mピークのあるところが高畑山とされていたというから 
森澤さんの890mを「本元・・・」とするこの記述は間違っていると思われる。
実際に登るのであれば、「会津名山案内」http://aizunogakujin.web.fc2.com/honmotoiidesanroad.htm を参照されたし。
GPS軌跡が載っているので 間違うことはない。



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この会報「ふみあと」には昭和40年ごろの貴重な飯豊山登拝の記録があって、、、
なかに、深田久弥の辿った山形県と福島県との県境に拓かれた登山道のことが記されていた。

牛ヶ岩山の尾根道は昭和37年にひらかれ 深田久弥はその年にここを通って五段山を経由し
熱塩加納村に下りていた。
五段山にはブナ林の急坂があり五段になっており、五段坂と名付けられた・・・ とある。

数え歳13歳の飯豊詣りの時には 先達からこう言われるらしい。。。
「悪い事をした者は ここで谷底に落ちる」と脅される。そう、ここが剣ヶ峰である。























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by tabi-syashin | 2015-11-13 19:24 | Mount Iide | Trackback | Comments(0)

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1988年 30周年記念誌



●地方山岳会の氏素性とは

地域山岳会と名がつくからには 地元に根付いていなければその名は使えない とか 東京に籍を置く山岳会だから全国に行くしかない とか。 仙台という地域山岳会だから 栗駒 蔵王 二口が中心になるだろう・・・とか そういうわけではないのだが 

地域に根差すということは、根本的な「地域」という拠りどころがあるという前提だ。つまり過去においては「氏素性」が明確であるということだった。 これがネット社会となり コピー文化・トレース文化の横行となれば 東京でも大阪でも仙台でも皆一様に 同じ有名どころの谷や山を登って 皆一様に同じコースを記録に落とし込む 
、、、だとして、そこには 「らしさ」がなく、ローカルだからこその「面白味」がない ということになる。

それこそ ネット社会での「知り合い」がまさに元来の「友人」であるかのように、知り合いと友人とでは大きな違いがあるのに・・・画一的にイコールに近い。その意味で山岳会も昨今は「氏素性」「所番地」「根っこ」が分からなくなってきている。


●金太郎飴ならブロガーには敵わない

どれを観ても 同じ山で 同じコースで・・・まさに記録は個性喪失、金太郎飴だ。まして地方の小さな山岳会の記録は文章巧みなブロガーにも追われ、消えゆくのみになってしまう。ここで、「一考」が必要となる。 

つまり、、、逆をいく。 今このような時代だからこそ「おらが山 おらが谷」を強烈に愛し、通いに通って愉しみつくす、そのような活動をすれば 地方山岳会の生き残る道は前途洋々な(?)わくわく感が出てくるのではないか と。

個性を大事にしなければいけない という「呪文」を云っているのではなく、日常の活動が「地域 地方」に大きく偏ってる、意識的にどっぷり地域・地方に大ブレな活動をする、そんなローカル性を前面に押し立てた山岳会じゃないと今後は生きる道を失う ということだろうか。 

もしくは、会活動から解放され「同人」となって難易度も興味度も高い沢、岩を追うだけになるか・・・。ゴルジュ記号の毛虫マークを追い求め、難易度をしめす5+などと記号を愛してばかりいたのでは(個人の興味は尽きないとしても)山岳会として、組織としての面白味は消失するのではないか?、グレード記号の世界に「人間集団の雑味、面白味」が滲み出る、味わう余地はあるのだろうか という問題が残る。すでに「同人」の域に存在する会は論外ではあるが。。。


●山岳会の進むべき方向とは

これら地域山岳会の発行する会報誌を読んでいると、40年、50年の「重みと危機感」がおしなべく巻頭言に記されている。併せて 今後の方向性も各会みな同じように示されている。共通することは、何故に半世紀以上に亘って会活動をすることができたのか?という「総括」だろう。

そこに今後の生き残りの答えが示されている。地域性を尊重し、それを会の個性だと言い切れること。それと現代にマッチする組織の軽さ、軽快感を持つような組織にするのが一番ということ。北ア 南ア 谷川 上越が気になるのではなく それを越えうるインタレストな活動が地方山岳会活動に見いだせればよいこと・・・だろう。

登山活動の活性・活発化のほかに 人間関係、会運営に関してもどんどん若い人に任務を振り分け、組織に軽快感をもたせることも重要になってくる。「自分のため」と思える質の高揚が期待できれば すでに御の字なのだ・・・である。


●雑感だが

今の世、若者・女子が普通に山岳会の扉を叩いているんじゃないのか? 僕らの頃にはなかった現象が いま興っているということだろう。入会者の増減は会活動の活発化に比例すると以前にも書いてきた。ブログを逆手にとって利用する、どんどんブロガーに変身する若手会員の身軽さも 今後は重要になるんじゃないかな(笑)



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1991年 創立20周年記念号
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by tabi-syashin | 2015-10-31 23:22 | colum | Trackback | Comments(2)

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あれは<青春>と呼ばれる時代の一夜の夢だったのだろうかー。それにしては長くその〈夢〉を引き辷り続けてきたようだ。

かれこれ28年になろうとするこの山との関わりの背後にあるものに思いを巡らせていると、高地岳北壁1ルンゼから自然落石の乾いた音がする。咄嗟に身構えてみたものの、落石はあらぬ方向で炸裂、幽かに硝煙の匂いを残し静寂に還る。

そういえば初めて海谷を訪れた1965年の冬、退散する原因となった大雪崩が発生したのもこの高地岳北壁の1ルンゼだった。それにしてもあの雪崩は凄かった。1ルンゼを突風のように駆け下った泡(ホウ)雪崩は、海川本流を渡り、対岸の仙丈ヶ岳南西壁に突き当たって坂巻き狂騰していた。

振り返ると高地岳北壁が象の顔の相貌を見せて大迫力となってきた。この岩壁にどうしてもカール・マルクスの名を与えたいと主張して譲らなかった徳永憲一は、当時学生運動に熱中し、山にも全学連のヘルメットで現れたのだが、それが卒業と同時にコロッと寝返り、”米帝”の先端企業IBMに入社して私たちを唖然とさせたものだ。

”学生時代のハシカ” ”脳嚙りの身勝手な熱” 様々な批判があり、それも確かに一理はある。それでもなお、確かにある時代に夢に溺れ、社会主義と変革の想いに自己の存立を確認したいと願う心情はあるのだし、残念ながら生きるためにそうした夢を削らずに過し得るほど私たちは強くない。

だがそれでいいのだ。互いに生きていく道筋が違えば、自ずから関りを深める相手も変っていくのが当然。そうして少しづつ青春の蒙み(クラミ)から脱け出し、年老いてゆくのが人の定めというものだろう。

岩を攀り損ねて、墜落することよりも社会的に失墜することの方が恐ろしく、耐え難い。”死ぬ気になれば・・・”と人は言うが、ジワジワと真綿で首を締めつけられ、社会的に葬り去られるのではないかという不安に較べれば、瞬間の死など気楽なものなのだ。
幽かにそれと判別できる程度の焼山の噴煙を眺めながら、そんなことを考えていると、早川谷を渡る風のさざめきに乗って誰かの声がする。
「駄目だよ、まだ・・・・・」 藤平の声だ。
「まだ終わってないだろ」 これは木村の声だ。
木村秀雄、彼は私が約束を破って参加を取り消した駒ヶ岳南西壁の試登中、墜落死した男だ。木村は冬の海谷の岩壁登攀を提起し、私に強く実行を迫ったのだが、その最初の試みで遭難してしまった。

昼闇山(ヒルクラヤマ)、それは、海谷のすべての課題が終わったら一緒に登ろうと、ひと足先に旅発った彼らと約束していた山だった。






大内尚樹 昼闇山(海谷山塊)白山書房より抜粋

注:大内氏は 駒ヶ岳南西壁 冬季単独登攀を成し遂げた。昼闇山に登って、回想したのがこの「約束の山 昼闇山」である。


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by tabi-syashin | 2015-10-20 09:31 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(0)

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お駒のヒシは海谷の雄 「駒ヶ岳」の西、
根知川に面している。

高距四百メートル、ほぼ垂直の岩塔である。
ヒシというのは
この地方にふるくからある方言で、
きりたった岩壁の謂。
そいつはまさに巨人(ガルガンチュワ)。

獅子のような頭をもたげ、
両肩をいからせ、聳然と周囲を睥睨していた。
カタストロフィに飾られて、
巨人はますます尊大に、陰険に、
私の心もしめつけてゆく。

あのきみのわるいフェース。
夢にまで追いかけてきて おびやかし、
恐怖と戦慄のつめあとを ふかくうがった岩壁。



遠藤甲太著 「山と死者たち」 白山書房より抜粋








人は人とのかかわり合いで生きており、いろんな影響を受けながら生きている。山も同じで強く影響を受けながら50年近くかかわってきた。その山への誘いは山岳書物が多いのだが、なかでも登攀モノが中心になり、そのストイック性もあってか 山への理解に一般ハイカーとは歴然の違いがでているように思う。

昔と今の指向性の違い・・・、現在はマテリアルも交通手段も、何といってもパソコンのスイッチを入れれば山岳情報が即座に手に入る、何でも手に入るが、、、その代償として山への深い憧憬や情念、里人との温かな交流など明らかに大切なものを喪った。「軽薄短小」「安近短」の現在に山に目覚めた人と 一方、かつてデジタル情報のない時代、現場に立たなければ知りえなかった山岳情報や交通の未発達の時代に生き、計画からリザルトまで緻密さを求め、食糧から酒に至るまですべてを共同装備と捉え、それこそ生甲斐!と「重厚長大」に山に取り組まざるを得なかった我ら世代との違いは とりもなおさず行動形態に現れる。

つまり、それは「ソロ」という行動形態に代表される。ソロで山に入れる気安さは、反面、奥山に入らぬ、歩かぬことを意味する。それとは逆に 集団で切磋琢磨するということは、やがて、ソロでも奥山に入る実力を養うことに通ずる。 気安く浅く山を歩き続けるか?、苦労してのちに享楽を生むか?の違いでもある。

かつて何度もいってきたが 個人ではできないことをやり遂げる能力を新たに持ち 個人以上の実行力を持つのが山岳会という「組織」。だから、世情を断つ冬山でも 未開のワンダーフォーゲルでも 幽玄な谷でも亘れてしまう。そして これこそが「組織」の存在意義でもある。 



今日紹介する「私の書棚」。この遠藤甲太のおどろおどろした内面世界は私自身の内面に深く影響したものであり、一方 難所を淡々、飄々とこなす大内尚樹教授にも惹かれるものがあり、どちらも同様に大切にしてきた「彼ら」であり「書物」である。

彼らの接点こそこの「海谷」であるが その道にはその道に適うものだけが集まるという難局の道理が在る。この道理を理解するには 山に向かおうとする側の根底的な「内面の差」「積み上げ」が必要であることを先ずは知っておかねばならない。

いずれストイックな「内面の差」は深山幽谷に入り込んできた年月の差に歴然と現れ出るもの。それこそが各自なりの山との関わりであり、「積み上げ」という系譜でもある。さらにまた それこそが沢ヤと岩ヤとハイカーとの「ものの見方の色違い」にもなっている。

冒険の密度、山、岩への理解度、経歴の差、難局体験の違いなどとなって現れ出たとしても いささかも驚くものではない。面白そうな山に飛びつく一般ハイカーと地味ながら流域踏査を執拗につめる地域山岳会々員との差は 時々の局面で 既にも常にも現れ出ているのだから。



ここ海谷は いまでこそ「雨飾山」とロマンチシズム溢れる名称で多くの人を集めるが、、、じつはその隣り、海川に面する凝灰岩の岩壁で人知れず散った男たちの物語があることを それが最近まで続けられていたことを 忘れないでいてほしい。




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by tabi-syashin | 2015-10-19 17:20 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(0)

かつて「南会津山の会が発行した会報“いろりばた”紀行文を デジタル化して遺そうとい私的な試み」である。 この冬 暇を見つけてはタイピングを継続してきた。約1ヶ月をかけ手元所有の「いろりばた」を全巻読み終え、各巻ごとに貴重な紀行文、好みの文体をピックアップし(但し、茗渓堂などで広範囲に販売された特集号・記念号などは省いた)デジタル化した。この第69号が昭和年代発行分の最終号となる。

47~69号まで こうしてみると・・・登るという行為を基に会員の想いや人生観が浮き出て、会津を基盤に様々な方々が集い、登り、その会津を語っておられることがわかる。(語れるほどの山を愛し持ててることが今さらながらに羨ましいが)

中西章さんの造詣深い短編詞に「雪国に住む人は、冬になるといつも暖かき南の大地に想いを馳せるという」の行りがある。どんな土地、どんな辺境にあってもその土地を受け継いでこられた先住の方々が住み慣れたその土地を払い新しい土地へ土着することへの困難さ、切なさ等を「峠路の紀行」を通して理解しえた。峠を越えることが旧来の生活との離別という「辛さ」「哀しさ」を隠し持つことも理解できた。

特に今回、望月達夫さんの阿武隈紀行シリーズ「阿武隈の晩秋」「阿武隈の低い山」「阿武隈の低い山(2)」「阿武隈日記」を転載するうちに阿武隈との関わり方 例えば「故郷の山を形容する地元人の敬い」、「風土や暮らし向き」、「会津や阿武隈、福島の人情味」という点でビシリと伝わってきた。ましてや3年前、原発事故で立入禁止、故郷を失ったことへの怒りや口惜しさが尚更に理解できたという副次的心得も備わった。

それは、30年という時を隔てもなお、「人の暮らしとは本来どうあるべきか?」という問いとなって伝わってくる。「幸と不幸」「文明が文化を駆逐する」という背反性、この不条理が見えてくる。


今となって会報「いろりばた」は老会員たちのアーカイヴに留めるのか? 今後如何に伝えるのか? ただただ消滅の一路をたどるのか? 甚だ恐縮ながら朽ちることへの覚悟をせざるを得ないのか? 仮に図書館の書棚の隅に遇されるならされるでそれも一つの終え方かもしれないが、どの道を採るのかは誰もわからない。老齢による会活動再生産がなされない現状を鑑みて、いろりばた愛読者ならばこれらを「過去の遺物」とするのはもったいないと考えるのも道理。

手軽に 広範囲に「インデックスから本編へ」PDFファイルをネットを通じて「会員制にて読む」ことができればかつての紀行文の遺し方として 一つの良い方法かと思うが、「権益」にすがるばかりじゃ「将来の形」は見通せない。それを指し示すことが現存会員たちの任務であろうか。

版権を持つ版元(南会津山の会)や著作権絡みの受益者に損害が及ばぬように、インデックスを各号記し不遜の備忘録としたい。今号でこの「いろりばた」の「抜粋」ならびに目次と表題だけのインデックスタイプ作業を終わりとしたい。では何分宜しく願う。

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表紙写真「龍ヶ嶽から県境の山やまを望む」 藤間道徳 撮影
南会津山の会「いろりばた」第69号 昭和63年10月発行



目次

表紙の写真 龍ヶ嶽から県境の山々を望む ・・・藤間道徳
「磐梯山噴火の湯」           ・・・本多 正・・・1
二岐温泉昭和62年度春の総会報告    ・・・岡田昭夫・・・2
石城山(峰張山)            ・・・佐藤 勉・・・3
龍ヶ嶽(533m)           ・・・藤間道徳・・・7

思案岳(874.2m)         ・・・藤間道徳・・・8
写真二題                ・・・藤間道徳・・・10
木地小屋考               ・・・祖父川精治・・・11
晩秋の尾瀬越え             ・・・川崎精雄・・・14
テレマークスキーで高曽根山       ・・・本多 正・・・16

会津朝日岳の初期登山者たち       ・・・山田哲郎・・・18
「藪山辿歴」を読む           ・・・川崎精雄・・・21
「ふみあと 10号」を読む       ・・・川崎精雄・・・22
「かぬか平の山々」を読む        ・・・渇き精雄・・・23
蒲生岳の麓で              ・・・永峰芳美・・・24

「会越」か「岩越」か」         ・・・川崎精雄・・・25
秋田県角館に残る会津武家屋敷      ・・・平野 彰・・・26
メカの力で峠を行けば          ・・・森沢堅次・・・28
湯の花温泉昭和62年度秋の総会報告   ・・・滝沢芳章・・・32
会員の足跡 30周年記念誌アンケートより  ・・・岡田昭夫・・・34~68(山域別山行一覧)


● 思案岳(874.2m)  藤間道徳

思案岳の名を知ったのは1968年(昭和43年)に初めて大戸岳に登った時だった。頂上からあたりを眺めていると目の前に闇川(クラカワ)部落から直にそそり立つ独峰を見た。地図をよく見ると思案岳とあり美しい山名と整った形の良さで、この山には何かがあるぞと思った。それ以来 私の頭の片隅にはいつも「思案岳」があった。

この山は「新編会津風土記」闇川村に ●千夜嶽(チヤガタケ) 村より丑寅の方にあり、高五十丈餘勢削り成すが如し ●沼二 一つは大戸嶽の頂にあり、一つは地夜ヶ嶽の頂にありともに周一町計、とされている。また、「岩城国若松県第一大区全図」明治6年~9年に若松県が調査して作成した古地図(復刻版、南会津山の会発行)には「シアンカ嶽」となって険悪な山容がはっきりと描かれている。

思案岳に、今度は闇川から登ろうと勇気を出して桑曽根に行った。獨古松雄宅に寄り、おばあさんがいたので道を尋ねた。大岩の下が昔、馬の草刈り場だったので道が今でも残っており、それを登り後は大岩を真っすぐ登れば頂上に出るとの事。

闇川保育所から林道を行き、左側のコンクリートの階段を上がると急斜面の林の中に芝橇(シバソリ)で草を下ろしたという道が続いていた。ハァハァいいながら尾根に出て真っすぐ登ると大岩だ。中ほどから岩の上に上がると視界が開けて、まだ雪が残る大戸岳が初めて姿を見せ、真下に桑曽根や入小屋の部落も小さく見えてくる。岩は脆く苔むしていて軍手に苔がくっついて取れない。すぐに岩尾根になって大戸岳を背に受けながら、灌木の新芽がまぶしい中を馬の背登りだ。やがて地竹の山頂に出て左へ少し行くと、新緑に包まれた三角点に着く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何百年もめえの話だが判んねぇわし 
地夜ヶ嶽さ、姉と妹昼寝しに行ったんだど
起きたどぎ、自分の胸さ蓮の花が咲いていだら、
(その娘が)闇川の飯豊山へ
咲いてながッたら、山都の飯豊山へ行ぐ
と約束して 昼寝したんだど

そうしたら、妹はかしげぐって 
途中でそおっと起ぎで 
自分の胸に咲いでいっと思って見だら 
姉の胸さ咲いでだんだど、
なんじょしても闇川の飯豊山さ行ぎっちくて、
我がの胸さぁ蓮の花を持って来て、
また寝だんだど

二人が起ぎだっけが 
妹の胸にたしかに蓮の花があったんだげんちも
動かしたもんで花が萎れっちまって 
姉の胸から取ったのがバレたんだど
それで 嘘っこきは家に置がんにぃ と、
妹は山都の飯豊山さやって
姉が闇川の飯豊山に行ったんだど 

それがら闇川が本元飯豊山になって、
姉と妹が昼寝して考えた山を思案岳と
呼ぶようになったんだど

この話 私は子供の時分から年寄りに聞かされているし ここいら辺の人達は皆知っていて、まるっきり でたらめな話ではねえと思うなぁ(桑曽根 獨古ハルノ 明治44年2月16日 77歳)
(思案岳(874.2m)・・・藤間道徳 より抜粋)
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by tabi-syashin | 2015-01-10 08:55 | iroribata | Trackback | Comments(0)

この digital 「いろりばた」紀行集 は かつて南会津山の会が発行した会報「いろりばた」の紀行文を 「デジタル化して遺そう」という私的な試み。この冬できるだけタイピングしたいと思う。だが、作者独特のおくり仮名遣いや旧漢字遣いが意外に伏兵だったりして とことん自分の常識が覆され 失笑してばかりでなかなか進まず(笑)

この「いろりばた」では趣向を変えて、研究論文とでもいえる河上鐐治さんの「忠臣蔵異聞」をコピーした。編者もかつて栗子山登山の帰りにこの藪の薄い峠路に大野九郎兵衛の墓と出会っていた。現在、石畳の峠路も藪の中となり古の趣は物理的に排せられる。

今号ではさらに中西 章さんの峠路シリーズを2編コピーした。なかなか文に艶があり、中西さんらしい。

版権や著作権などの権益問題が絡むようなので「抜粋」の形をとった。後に目次と表題だけのインデックスを加えた。では何分宜しく。

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表紙写真「昭和村川上部落 米沢山常楽寺の念仏供養塔」 中西 章撮影
南会津山の会「いろりばた」第68号 昭和62年9月発行

目次
表紙の写真「昭和村川上部落・米沢山常楽寺の念仏供養塔」・・・中西 章
昭和六十一年度春の総会報告(湯の花)・・・山田哲郎・・・4
昭和六十一年度秋の総会報告(檜枝岐)・・・山田哲郎・・・40
南会津山の会に思うことごと     ・・・早川瑠璃・・・8
八総佐倉山            ・・・祖父川精治・・・10

雨の平ヶ岳             ・・・森沢堅次・・・14
忠臣蔵異聞             ・・・河上鐐治・・・18
笠倉山二つ             ・・・滝沢芳章・・・21
高原山の思い出           ・・・望月達夫・・・24
ごぶさたのおわび          ・・・星 廣一・・・27

初夏に滑る             ・・・河上鐐治・・・30
八総佐倉山             ・・・中西 章・・・32
「成瀬岩雄さんを偲ぶ会」に出席して・・・祖父川精治・・・40
俳句 会津ところどころ       ・・・川崎精雄・・・11
俳句 やぶをこぐ          ・・・川崎精雄・・・41

望月達夫著「忘れ得ぬ山の人々」   ・・・山田哲郎・・・34
佐藤 勉著「我が南会津」      ・・・川崎精雄・・・37
山田哲郎著「青空と輝く残雪の山々  ・・・油谷次康・・・38
山のモザイク画           ・・・小林 力・・・28
イラストと文            ・・・岡田昭夫・・・1

写真と文 会津の峠を行く「黒沢越」 ・・・中西 章・・・2
写真と文 会津の峠を行く「柴倉峠」 ・・・中西 章・・・3
写真と文 野生動物三態       ・・・佐藤 光・・・12
写真と文 ある一枚の写真      ・・・本多 正・・・17
写真 そば畑           ・・・小滝清次郎・・・7

写真 飯豊のオンバ様        ・・・角田孝行・・・9
写真 玉子石(平ヶ岳)       ・・・角田孝行・・・26
写真 廃村となった三条部落     ・・・滝沢芳章・・・39
昭和六十一年度一般会計報告   ・・・特別会計報告・・・46
新入会員紹介 会員消息 住所変更         ・・・47

長谷川宗生会員ご逝去               ・・・48



● 忠臣蔵異聞  河上鐐治

奥州街道から分かれた米沢街道は、福島の町には入らずにその西郊を北に向かい、庭坂宿を通り抜け西に折れると、あとは米沢までの人家も稀な山間の道となる。

急な登りがしばらく続いた後、街道は緩やかになって広大な惣八郎ヶ原の隅を過ぎり、高津森山の南から北に回り込んで、福島領最後の宿場、李平(スモモダイラ)に出る。その名の李の花に彩られるのも、春の一時だけで、あとは山中の淋しい宿場である。ここから街道は松川に沿って、樹林に覆われた北向きの山腹に設けられている為、昼尚暗く、途中ある不動明王は、流れ落ちる滝の傍らで旅人に鋭い目を向けている。

強い酸性で岩肌がぼろぼろになっている蟹ヶ沢を渡ると、米沢藩である。ようやく視界も開け、右手には松川の流れも見下ろされ、その向こうに鉢盛山のずんぐりした山頂が現れている。九十九折の道を松川の谷底まで降り、対岸の急な杉林の間を登り切ると、板谷の宿である。街道に沿う家並みは僅かで、直ぐに通り過ぎてしまい、石畳の道はこの街道の最高点で鉢盛山の南に延びる尾根を越す板谷峠へと続き、そこからは下りとなって、山峡を米沢の城下へと続いている。

晩秋の一日妻と二人で福島から米沢に向かう。国道13号線の栗子スキー場でバスを降り、鉢盛山に向かった。標高1093m。頂上には秩父宮の登頂記念碑があり、また、板倉勝宣の著書「山と雪の日記」の中の、峠停車場にも歌われている。しかし今は、鉢盛山の名とは全く関係のない栗子スキー場となって、その東面は無残に削り取られ、無骨なリフトが張り渡されている。樹々はすっかり葉を落とし、シーズン前のスキー場では、作業員がリフトの整備に働いているだけである。


何とか熊笹帯を脱出し、送電線の下の刈りはらわれた後を進むと、唐松の林に林道を見出した。林はすっかり裸になってしまい、一面に金色の針をまき散らしていた。林の中程まで来ると、藪が刈り広げられ、一基の石碑が建てられており、案内板に「大野九郎兵衛の墓」とあった。正面の銘は風化して判読しがたかったが、側面の建立年月日は 明和六巳丑七月十六日と読めた。吉良邸討入りの、元禄15年から数えて67年後である。回りの囲いが鉄道の古レールであったのは、古碑の趣を損ねておった。

米沢街道は、明治14年の万世大路の開通で寂れてしまい、さらに国鉄奥羽本線の開通はこれに拍車をかけ、全く衰微させてしまった。李平宿は火災のため、宿場のほとんどを焼失し、再建をあきらめ全員故里を捨ててしまった。今は藪の内の石垣にそれと分かるだけで道端には真白なペンキ塗りの「李平宿場跡」と「義人代官古河善兵衛自害の跡」の標識が白々しく立っている。板谷からは、石畳の旧街道跡が僅かに残っているが、通る人も無く草に覆われている。

さて最後に大野九郎兵衛の自害の地を検討してみよう。当時は個人で仇を追って仇討ができたくらい人口も疎で、それに人別帳も割合完備されておった。特に領主の父親を守るため、吉良邸に付人まで派遣し、赤穂浪人に対して注意怠りなかった米沢藩が当、自国領の入口でわずかの人数きり住んでいなかった板谷宿に胡敢な他国ものが隠れ住んでいるのを発見できない筈はなかったと思われる。また、相当に嫌われていた悪領主ならとも角、危険を冒してまで それと知ってかくまう領民もいなかったろうと思われる。すると、その場所はどこか。米沢藩に入る手前、福島領は、庭坂、或いは李平と考えられる。

九郎兵衛のひそむ場所としては、最も適しておったように思われる。今年も間もなく12月14日が巡ってくる。もう敵も味方もない。各地でいろいろな行事が行われるだろう。全くの作り話かもしれないが、この地に伝わるのも何かの縁か、九郎兵衛の冥福を祈ってやりたい。 (本文より抜粋)


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追記 2015.11.19

● 大野九郎兵衛と板谷峠

胸につかえてるものを ここいらで取り除こうと 旧赤穂藩城代家老、大野九郎兵衛の慰霊碑を捜しにJR奥羽本線峠駅に向かった。板谷駅を過ぎると「旧奥州街道石畳道入口」と看板が立っている。杣道に小ぎれいに石が並んでいるところだ。これを過ごしさらに数キロ進むと滑川分岐手前に至る。慰霊碑への案内板が建っている。車を下りて林に入り ちいさな川を渡り カラマツ林の中に進むと 高さが2mほどの石碑がトロッコレールの廃物に守られ?建っている。石には「明和六巳丑七月十六日 佐藤氏」と刻まれている。1769年に建立されたものである。それは米沢方面に面を向けていた。

前述に森澤さんからの手紙の件を記したが 彼の手紙には・・・
一、討ち入りに失敗し吉良殿が米沢に逃げ入ろうとした場合は待ち伏せて討つ 
二、しかし、江戸で目的が達せられたので、生涯をかけた仕事が終わったと考え自害した
と記されていた。慰霊碑横の説明案内板にもほぼ同じことが記されていた。ただ違うのは 観光協会の看板が「大野一味」と記していたこと。悪党でもあるまいに一味という字を宛がったのはいささかお粗末だなと思えた。

童門冬二著「小説 上杉鷹山」下巻(そんぴん編)に拠ると大石内蔵助と大野九郎兵衛が密議し 身内を騙してまで大野を追放した形をとったとあり米沢に潜伏しやすくするためとのことである。南会津山の会 河上さんによれば 江戸の討ち入りから逃れた吉良が必ず通るこの街道、板谷宿手前の李平あたりに樵に身をやつして潜伏していたのだろうとのことだった。

一方 津本 陽著「新・忠臣蔵」に描かれた大野九郎兵衛像は 自分の犯した罪をずうっと背負って生きて来て そのコンプレックスに苛まれ それを晴らすために この地でこの日まで生きてきた・・・ といった風だ。僕もこっちの方がシリアスでかつ戯曲的にみてカッコイイ筋書きだと思っている。

「小説 上杉鷹山」にしろ「新・忠臣蔵」にしろ、やはり小説は小説に過ぎず自分で穿ってみないことには始まらない。これから図書館に通って史資料集めと洒落込まなくちゃならないかも。宮城の岳人・深野稔生さんの言う「山は総体だぁ」、この真の意味はこんなところにあるんだろうね。山という対象物の周りに 自分で興味が持てる題材をどれほど多く用意できるか?が 己の頭の深耕をさらに図ってくれるんじゃないだろうか? たとえば「山と祈り 山と歴史 峠路考 山名考 地名考」など、山を単に登る対象として捉えるだけではなく、さらに面白味という縁取りで飾ってあげよう というわけだ。これこそ遊び方を大きく膨らます大人な考え方だと思う。

(もときち)


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● 黒沢越  中西 章

乗越しは、ひとの歩みが途絶えて久しいのか 
散り敷いた深い落葉に埋もれていた。
あたりは深い森で樹木の幹はすべて苔むし
淡い霧がまとわりついていた。
朝からの小雨も止み、薄日が射し込むと
霧は静かに動き出す。
すると森はようやくその全容を見せ始める。
キョーロン、キョーロンという鳥の声が
奥から聞こえてきた。クロツグミである。
その孤独な囀りは、奥山に棲む森の妖精への
呼びかけのように思えた。



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● 芝倉峠  中西 章

峠に立つと樹間越しながら展望が開けた。
すんだ空の下、大河只見が流れ輝き、
その川畔の先には はるばると南へつづく
緑の明るい野山がある。
雪国に住む人は、冬になると
いつも暖かき南の大地に想いを馳せるという。
交通の発達した今日では、さほどの隔たりとは思えぬが、
こうして二つの峠を越してみると昔の野沢の人々にとって、
柳津とは温かき幸せの棲む国だったのかもしれない。



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追記 2015.11.18
中西章 黒沢越・柴倉峠 


旧・耶麻郡の野沢町(現・西会津町)から物見遊山で旅をし大山祇神社をお参りして 
さらに柳津の虚空蔵尊にも詣でるには峠道を二つ越えなければならなかった。
一つは 黒沢越(540m)であり もう一つは柴倉峠(490m)である。
黒沢越を越えたその足で柴倉峠も越えねばならなかった。

話を聞いた野沢の十一塩屋のご主人の記憶によると、仲間内の元気のよい人は、滝を
見た後さらに足を延ばして神社の奥ノ院にも詣でて峠の直下で追いついてきたという。
事実、手元にある一色刷りの昭和四十四年十月三十日発行の五万図には、奥ノ院の手
前から等高線沿いに峠に向かって破線路が付いている。

野沢から黒沢越に南下する道は 西平の鳥追観音に詣り 中野川に沿って大久保の
「大山祇神社」に出る。ここ大久保の遥拝殿に寄ったあと山道に入り「弥作の滝」の先
から左へ折れ黒沢越に向かった。それ以前は「大山祇神社奥ノ院」手前から峠に向かっ
て破線路があったようだが今は(昭和60年9月22日)草に埋もれたか、見つけることが
できなかった。

峠一帯は昼もほの暗いほどに成育したブナの林で、沢詰めから峠にかけては路形もはっ
きりと残っていた。大滝側もコースは小沢を下るが、滑りやすい渕の岩肌には誰が穿っ
たか、程よい感覚の足掛かりが刻まれている。

黒沢越を南に下ると路は尾根裾のトチ巨木の袂で長谷川の上流に出合う。ここから2キ
ロも歩くと五軒が家居する大滝である。さらに流れに沿って下ってゆくと落合に出る。
落合とはその名の通り 長谷川と面倉川が落ちあう所で、橋の袂には今もそのまま時代
劇の舞台装置に使えそうな好ましき旅籠が二軒ある。



*注 「黒沢峠」ではなく、「黒沢越」である












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by tabi-syashin | 2015-01-10 08:48 | iroribata | Trackback | Comments(0)

かつてオフセット印刷の南会津山の会発行の会報「いろりばた」に載った紀行文を 「デジタル化して遺そう」という私的な試み。この冬できるだけタイピングしたいと思う。だが、作者独特のおくり仮名遣いや旧漢字遣いが意外に伏兵だったりして とことん自分の常識が覆され 失笑してばかりでなかなか進まず(笑)

今67号この「いろりばた」も年代を重ね昭和末期になると・・・新たな電子データの存在が明らかになり、ここでのコピーはその意義を失いつつある。もっとも文章の巧みな望月さんの単行本は この年代になると多く世に出てくるので 当ブログでわざわざ拾い出すことに大義がなく、新たな作者を求めながらのコピー作業となる。

たまたま今回、祖父川さんの山行報告や中西さんの峠話が続くのでコピー作業も体を成すが、今後のまとめ方に工夫が必要になるかもしれない。今考えていることは「いろりばた」第70号あたりでコピー作業を終え、最初に戻って各号の目次を編集しようか などと思い付いていることぐらい。

版権や著作権などの権益問題が絡むようなので「抜粋」の形をとった。後に目次と表題だけのインデックスを加えた。では何分宜しく。

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表紙写真「大沼郡三島町間方 双体道祖神と首無し子安像」 岡田昭夫 撮影
南会津山の会「いろりばた」67号 昭和61年4月発行

-会津の峠を歩く-
● 美女峠  中西 章

美しい女性(にょしょう)を表す名詞をそのままに持つめずらしい峠である。そんな峠にもそれなりの由来や伝説が語りつがれているものだが、この美女峠にも平家の落人の美しい娘にまつわる悲恋物語が残っている。

この峠は野尻川の谷奥、中向あたりの物産を集散地の宮下へ運ぶ必要性から開削されたものと考えられる。歩いてみると路は、俎倉山マナイタグラヤマ(一〇五六米)の西麓をゆるく縫うように越えている。昭和村側は爼倉山頂に設けられたテレビのサテライト局建設のため改良整備されたのか手入れはよいが、三島町側は少し草深く荒れていた。しかし昔、駄馬の往来が盛んだった様子は、残された路形から十分、偲ぶことができた。

そしてなによりも私を喜ばせたのは、山肌を覆う落葉樹の見事さとその種類の豊富さである。丁度、春(昭和五十六年)だった故か、私はその森の深さからくるむせるような緑の空気に心も洗われるような気持になった。

写真は中向側からのものだが、背後の山は爼倉山である。一間眺望はないように思えるが、頂はカヤトの広い円丘で疎林越しながら残雪の飯豊や御神楽岳を眺めるには格好の望岳台である。(参照地図五万図「宮下」)



● 美女峠の悲恋物語(いろりばた 第50号)
三島町の町史によれば 享保三年大谷組間方村の名主、二瓶儀兵衛が書いた「間方村覚書」に残る古文書があって それの現代語訳で紹介する。

昔、目指佐衛門尉知親という平家に仕える侍がいた。寿永、元暦の戦に敗れ平維盛が出家した時に 友親は暇乞いして忠僕弥蔵を伴ってみちのくへ流れた。日を重ね流れ着いた先は会津のこの地。野尻山、めしもり山(俎倉山)の麓の横深に柴の庵を結び、弥蔵は茶屋を出して餅などを商い生業とした。知親には高姫という歳の頃十八の美しい一人娘があった。高姫は父と同じ平家の落人で、中向の沢入兎久保に草庵を結んでいた中野丹下に思いを寄せるようになり、夜ごと横深に偲び合った。
ある時、丹下は取り込みの節あって 暫くの間 高姫と遠ざかることになった。高姫の思いは募るばかり、岩走る清水に身を清め、口を嗽いで神仏に祈ったが丹下は戻ってこなかった。日毎、夜の更けるまで待ち焦がれる思いを・・・

「わびぬれて しばし庵にいなば山 まつとしきかば いまかへりこむ」

三十一文字に託し路傍の石に書き付けたので、それからその場所を「美女帰」と呼ぶようになった。

六十路に余る齢であった父知親は病を得て他界してしまった。忠僕弥蔵は高姫の恋路を遂げさせようと漸くのことに丹下を探し出し、高姫の思いを伝え丹下に添わせた。世を忍ぶ身ながらも二人は仲睦まじく暮らした。しかし 鎌倉の平家残党狩りの詮議が厳しく、迫りくる追手の前に二人は兎久保の庵で心中自害した。その魂魄は二つの石と化したのであった。時、建暦弐年六月二十七日のことであった。

「肘曲がり」・・・高姫と丹下が肘を曲げ手枕で添い伏した処
「清水」・・・高姫が身を清め口を嗽いだ清水
「餅ヶ沢」・・・弥蔵が茶屋を出した処



● 美女婦峠(いろりばた52号 16ページ)
美女婦峠(びじょふとうげ) 
村東にあり、登ること一里十八町 間方村にゆく道なり・・・(新編会津風土記に)
野尻川にかかる岩本橋を渡り、まもなく指導標に美女峠を経て宮下まで20キロとある所から左に入る。
1.大国主命の娘、高照姫が来住とのこと。
2.平将門の三女が父誅せられて仏門に帰以し、加蔵尼と称し、この山に住んだ時のこと。
3.寿永元年の乱に落人、平維盛卿がその重臣 眠指佐衛門尉知親を案内として高姫ならびに僕弥蔵をしたがえて来住したること
・・・などなど、それぞれ時代を異にした三つの話が残されてある。



目次
表紙の写真・・・大沼郡三島町間方 双体道祖神と首無子安像
昭和六十年春 玉梨温泉総会報告 ・・・上野興世・・・4
昭和六十年秋 長沼町 総会報告 ・・・上野興世・・・41
南会津山の会三十周年記念誌発行と記念事業について・・・岡田昭夫・・・43
写真と文 会津の峠を歩く「小川越え」 ・・・中西 章・・・2

写真と文 会津の峠を歩く「美女峠」 ・・・中西 章・・・3
イラスト 「十九夜塔安穏」 ・・・岡田昭夫・・・15
写真   「白樺牧場」 ・・・小滝清次郎・・・17
俳句   尾瀬初夏・初冬 ・・・川崎精雄・・・1
太郎助山・百字ヶ岳から毛猛山へ ・・・山田哲郎・・・7

スキーで 御神楽・日尊ノ倉・貉ヶ森縦走 ・・・笠原藤七・・・11
尾瀬・南会津 ・・・永峰芳美・・・13
会津田島町針生山荘地鎮祭 ・・・大内善一・・・16
斎藤山 ・・・祖父川精治・・・18
城郭朝日山から古町丸山・尾白山 ・・・滝沢芳章・・・20

困った屍体の話 ・・・田村豊幸・・・22
尾瀬まで ・・・川崎精雄・・・30
城郭朝日山 ・・・望月達夫・・・32
日留賀岳のこと ・・・望月達夫・・・34
大佐飛山 ・・・望月達夫・・・35

御神楽岳・鞍掛沢 ・・・成田安弘・・・36
入会希望者の取り扱いの見直しを提言する ・・・山田哲郎・・・45
新刊紹介
「福島県ふるさと散歩道」 ・・・19
「塩の道を行く」朝日新聞福島支局 ・・・31

「ふみあと」9号 玉川機械金属㈱山岳会 ・・・33
入叶津の中野和夫翁死去 ・・・35
新入会員紹介・会員消息・住所変更 ・・・46
故成瀬岩雄氏の遺稿集刊行・お便り・他 ・・・47

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美女峠から爼倉山



―会津の峠を行く―
● 小川越え(こかわごえ)  中西 章

大谷川の谷奥の集落、間方から川上へ抜ける峠路である。三島町と金山町をわける山稜近くまでは美女峠路を使うが、その途中の放牧場の先で、左に向かうその路を見送り、荒れた出作り畠の中をほそぼそと赤松沢目指して下っている小路がそれである。延長八キロメートル。土地の人の話によると玉梨温泉の湯治に昔はよく越えたものだという。工夫は生活の便利さを求めて生み出されるというが、峠路も同じで、なにも玉梨へ出かけるのに美女峠を越える必要はない。

昭和五十六年春の塩沢総会(六月十三日)の日、佐竹成夫、岡田昭夫君らと歩いてみた。路はすぐ小川(こかわ)に入り、その右岸を忠実にたどっているがほとんど消えかけていた。しかし注意のいる高瀬をからむ捲き路は今も立派に残っていて、そのかたわらの老木の下には石の小さな祠が祀られ、数多くの石の金精様が捧げられていた。

私たちは、おだやかな流れの川面に映える新緑をたのしみながら路跡を探り、久方ぶりに集う会友達の消息をあれこれ話し合いながら川上の集落めざし下って行った。(参照地図五万図「宮下」) 

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小川越えの山の神


● 斎藤山  祖父川精治

会津盆地は濃い朝霧の中に沈んでいる。一般的には、朝霧は晴天の兆しといわれているが、会津ではそれが通用しない。坂下の上野さんの車に乗せていただき、大川ダムの工事中の国道121号線にでると、雲の切れ間から青空がのぞき、これから山へ行くのだという気分になる。

会津線を渡り、左右と枝道を分岐し、地図記載の破線の林道を進んでいく。加藤谷川が広い河原状となって流れ、その扇状地は十文字原となって大きく広がる。斎藤山、赤崩山、三倉大倉山など、見渡す限り今が紅葉の盛りといった感じで望まれる。この斎藤山は全国の斎藤姓の岳人に注目を浴びて人気がある。河原の向こうに、左走(さはしり)の集落が見える辺まで車を乗り入れる。会津長野駅から徒歩1時間30分、標高600メートル位の地点。

川崎さんがザックに鈴を括り付ける。沢の両岸にかすかな踏み跡があり、それを登る。やはりヤブが煩わしいので、沢と流れを飛び石伝いに進む。小滝もなく、いくつかの枝沢を見送り、なるべく水量の多い本流を選んでいく。最後の二股でに木で右に登ると、ようやく水も枯れて、ついにヤブに突入する。可愛いらしい小さな足跡が乱舞している。草の噛み跡から見て、どうもカモシカらしい。

あと頂上まで直線で500メートルくらい。ネマガリタケの繁茂した猛烈なヤブが深く、私たちの登頂を拒否しているようだ。頭からヤブに突っ込み、両手で枝を掴んで、体を引っ張り上げる。実に苦しい。垂直な懸崖のようで、体が浮いてしまい、地に足がつかず、腕力で登るといった感じ。それでもヤブから顔を出して、急峻な山稜を美しく彩る錦秋の風景を眺める余裕がまだあった。特徴のある双耳峰の二岐山が近く望めるようになってきた。このヤブコギの登高約1時間で、いきなりポンと尾根上に飛び出た。そこが斎藤山1278メートル、2等三角点標石の頂上であった。測量時に刈り払いしたのか、4名が腰を下ろして食事する空間は十分にある。

私たちは、会の慣例通り固い握手を交わした。川崎さんが、この山のヤブは、私の経験した中でも五指に入るとおっしゃった。確かに短いけれども、頂上直下の藪の物凄さといった本当に参った。ヤブ山の大先輩とご一緒に、スリ傷を作り汗を流して登ったという喜びがそこにあった。

新編会津風土記に さいとう山の東南に「すりかざは山」と記すのは、どこの山を指すのであろうか。南に水無川の支流、軽井沢とある素敵な名の沢が深く刻んでいる。(本文より抜粋)




*斎藤山・・・この山の地主が斎藤という方。 なので、この山を斎藤山と呼ぶようになる。













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by tabi-syashin | 2015-01-10 08:39 | iroribata | Trackback | Comments(0)

かつて南会津山の会が発行した、会報「いろりばた」の紀行文を 「デジタル化して遺そう」という私的な試み。この冬できるだけタイピングしたいと思う。だが、作者独特のおくり仮名遣いや旧漢字遣いが意外に伏兵だったりして とことん自分の常識が覆され 失笑してばかりでなかなか進まず(笑)

今66号では中西さんが問題提起されておられたが、、、山の本などに紹介した山が有名になってしまって、地元や山の雰囲気が損なわれたのではないか?と紹介者側の心の裏が紹介された。本に公開することが果たしていいのかどうか?(現在ではネット公開の是非問題になるけど)、という究極的問題は30年前に既に存在していたということかな。それとは無関係だけど、取り上げたのは中西さんの「山ノ神峠」と川崎さんの「日隠山と大倉山」の2編。ただし日隠山のみコピーした、申し訳ない。3編目は佐竹成夫さんの「高森山」を選んでコピーした。

版権や著作権などの権益問題がからむようなので「抜粋」の形をとった。後に目次と表題だけのインデックスを加えた。では何分宜しくお願いします。

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表紙写真「古町六地蔵」 小滝清次郎 撮影
( * 今までの表紙の中で もっとも自分好みな構図の表紙写真に出会うことができた)
南会津山の会「いろりばた」第66号 昭和60年8月発行

● ―会津の峠を歩く―  山ノ神峠   中西 章

猪苗代町の木地小屋から秋元湖畔の市沢(いっつぁわ)に越える峠である。

早春の一日(昭和55年3月23日) 私は山友の江花俊和氏、笹川慶子さんとこの峠に立った。ここを基点に東と西のピークの焼山と鞘ノ木山に登るためである。峠からの深い針葉樹の森に包まれた山、吾妻の姿に期待したのであるが、それは石版色の雪雲にはばまれかなえられなかった。すぐそこまで春は来てるのに、峠はまだうず高い雪壁を築き行く手を拒む。それはひと冬吹き荒れた風の威力をあらためて教えてくれていた。

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目次
表紙の写真「古町 六地蔵」・・・小滝清次郎
写真「七ヶ岳・上岳」・・・小滝清次郎・・・1
写真「長野合掌地蔵」・・・小滝清次郎・・・1
写真 -会津の峠を歩く-「山の神峠」・・・中西 章・・・2
写真 -会津の峠を歩く-「内越峠」・・・中西 章・・・3

写真「那須赤崩山」 ・・・小滝清次郎・・・10
写真「雪の下のサンショウウオ」 ・・・江花俊和・・・14
写真「南郷村大新田の六地蔵」 ・・・江花俊和・・・19
写真「池ノ岳からの平ヶ岳」 ・・・江花俊和・・・26
昭和五十九年春 西会津野沢総会報告 ・・・岡田昭夫・・・4

昭和五十九年 新野地温泉総会報告 ・・・笹川寿夫・・・44
遠い山・昔の山 ・・・田村豐幸・・・8
消えた温泉宿 土湯沢 ・・・中西 章・・・11
古桧峠 ・・・祖父川精治・・・13
高森山 ・・・佐竹成夫・・・15

高畠駒ケ岳 ・・・笠原藤七・・・18
枯木山 ・・・山田哲郎・・・20
初冬の田代・帝釈山 ・・・河上鐐治・・・25
金石ヶ鳥屋山 ・・・森 亮二・・・27
幻の滝ノ沢山 ・・・滝沢芳章・・・29

久しぶりに充実した登山 鎧岳 ・・・笠原藤七・・・31
五頭山塊の松平山 ・・・望月達夫・・・34
日隠山と大倉山 ・・・川崎精治・・・37
「南会津山の会三十周年記念誌発刊」(案) ・・・42
新入会員紹介 ・・・44

会計報告、会費納入について、他 ・・・45
いろりばた残部数、編集後記、ほか ・・・46


● 日隠山と大倉山  川崎精雄
中西章君の主催するスリーワイズクラブの阿武隈への山行に参加、二月九日(土)正午過ぎ上野発平行きに乗る。四時半ごろ着。郡山から岡田昭雄君 笹川慶子さんがマイクロバスで到着。五時四十五分ごろ発車、折木鉱泉に向かう。雨は依然としてかなり降っている。

明ければ昨夜の雨が嘘のような快晴。目の前の五社山をすてて海岸に近い街道を北上。二月と思えない暖かさで懐炉は不要だ。五万分地図「浪江」に入り、郡山へ通じる都路街道に出た所でストップ。下谷地という所の採土場の事務所で聞くと、老人が外へ出て採土場の上へ登れと教えてくれた。小さな山半ペタを削り取られた格好はどこで見ても憐れだ。そのへりの、まだ残っている樹木の部分を登る。いきなり私の大嫌いな藪こぎである。

尾根の上には、境界線と防止線を兼ねると思われる土盛り柵が続いていた。土盛り柵が四キロ以上先の日隠山頂上まで続いていたので有難かった。途中で見通しの効かない尾根が急に曲がって首を傾げた時も、結局はこれを辿ることで救われた。木の藪竹の藪に悩まされたときでも積雪の地帯でも同じだった。

二時に日隠山頂上着。六〇一メートル。常緑樹と落葉樹が建ち混じり、藪と積雪が、この山は人があまり来ない、と語っているようで嬉しかった。壊れかかった測量櫓の傍らで、各自晩い昼食をとる。宿の弁当は握り飯二個だったが、一個で腹一杯になった。雪があるのでやはり冷えてきた。

三十分ほどの休憩で、北側の落葉樹の斜面をまっ直ぐ下る。雪山の下りらしい気分もわずか二百メートルで終わり、谷間の道に飛び出した。ともかく満足、ぶらぶら歩いていくと、バスが迎えに出てくれていた。都路街道に出たところに山神の石塔があり、競ってカメラを向けた。今夜の泊まりは浪江の「勤労者いこいの村」という宿舎だった。こうした名の宿舎にありがちの固さはなく、料理も満点だった。

昨夜雨が少し降ったが、今朝はやんだ。仙台から佐竹成夫君が合流し、一向十八名。宿舎の支配人が「相馬焼の窯元を案内したうえ、大倉山登り口まで案内しよう」と先に立って車を走らせてくれた。(後略)

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●高森山・・・ 佐竹成夫
春まだ浅い四月の日曜日。山々のヤブを覆い尽くす残雪を踏み締めて、磐梯山の北東、秋元湖の東に横たわる高森山(1248.9m)に登った。これは東京の中西さんや猪苗代の江花さん、本田さん達が前から進めていた、一連の「磐梯山を巡る山々」の一つとして登ることになったものである。

緩い鞍部上の所を梵天川へと乗越す地点に来た時、正面に高森山の肩の部分から下の方だけが、雲の中から浮かび出しているのが見えだす。高森山との初めての対面であるが、予想以上に稜線は急峻で立派ないで立ちである。頂上が覆い隠されている為にことさら立派に感じられるのかも知れない。 

梵天川の右岸への徒渉も、幸い水に浸ることもなくうまい具合に石を伝ってすんなりといく。そして雪が消えてしまってからでは、密生するヤブに覆い尽くされてしまうであろう頂上から北東に延びる稜線への登りも、その頂上から北東に延びる稜線への登りも、その小さな鞍部に突き上げている小沢がすっかり雪に埋もれている為に、ほとんど苦労することもなく登ることが出来た。会津の山々に限らず、東北の春山のいいところである。ひと登りで落葉松の植林された稜線上の1109P直下の鞍部へと出た。

鞍部に立つと、秋元湖の方面から吹いてくる西風が強まったが、汗をかいた身体にわずかに感じられる程度で歩き出してしまえば却って心地良い位である。稜線上にはまだまだたっぷりと雪が残り、ヤブはほんのわずかに見られるだけで、その稜線上を忠実に辿り、小さな瘤を一つ越して南東へ少し行くと高森山頂上へ続く急な登りの直下に達する。この付近には、所々に立派なブナの大木が伐採から免れて残っていてうれしくなる。適当な柔らかさで持った柔らかさを持った雪のおかげで、ラッセルもそれ程ひどくはない。また、高森山頂上への急斜面の登りも高度差にして140mチョットと少なく、何の苦労もなく肩の部分に達した。東の方、梵天川寄りには、所々に大きな雪庇が張り出し、一部崩壊していて少し緊張させられる。と思う間もなく高森山の頂上へと辿り着いた。

頂上部はわずかに雪が消えており、その間から二等三角点と刻み込まれた石柱が顔を見せている。その他には、名のある山でよく見かけるような標識など一つなく、いかにも質素なたたずまいの頂上であった。晴れた日には吾妻から安達太良の峰々の素晴らしい眺めが多分得られるに違いない。磐梯山もきっと間近に高々と望まれるのでは、などと想像してみるだけに終わる。しかし東側に比べては西側は、雑木がやや密に茂っていて眺望はあまり良くないかもしれない。( 高森山・・・ 佐竹成夫 より抜粋)
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by tabi-syashin | 2015-01-10 08:33 | iroribata | Trackback | Comments(0)

かつて南会津山の会が発行した、会報「いろりばた」の紀行文を 「デジタル化して遺そう」という私的な試み。この冬できるだけタイピングしたいと思う。だが、作者独特のおくり仮名遣いや旧漢字遣いが意外に伏兵だったりして とことん自分の常識が覆され 失笑してばかりでなかなか進まず(笑)

2014年初の「いろりばた」になる。今64号から選んだのは 中西 章氏の峠路紀行を2編。望月さんの文型に基本を得て、淡々と書き上げている。読者に感銘を残して短く、共感を与えてくれる。素晴らしい短編だ。 さらに望月達夫さんの「阿武隈紀行」を最後に載せた、これは望月さんでなければならない、それほど文体が親しみやすい。

版権や著作権などの権益問題がからむようなので「抜粋」の形をとった。後に目次と表題だけのインデックスを加えた。では何分宜しくお願いします。

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昭和58年春 針生・四方山荘での記念撮影 中西 章さん撮影
南会津山の会「いろりばた」第64号 59年2月発行

●市野峠(880m)  中西 章
大内から越後街道に抜けるには、この峠を越えた方が近い。

明治十一年六月二十八日、一人の外国人がやはり越後めざしてこの峠を越えている。名はイサベラ・L・バード。意志の強そうな眼を持つ小肥りの中年のイギリス女性である。横浜で傭った伊藤という通訳一人を供に、馬の背に揺られ市野へと向かった。

すでに日光を発って五日、旅の疲れもあってよい印象を与えなかったのか彼女の日記には、峠路は粗野なスカンポやイラクサが繁茂し、二度と見たいとは思わない、とそっけない。六月といえば会津も梅雨。日本旅行には一番、不向きな季節だったからだろう。

しかし市野から会津高田に向う途中、自分の不注意から起こった出来事が、彼女の日本観を変える。やがて世界で、女一人が安心して旅のできる国は、日本をおいて他にない・・・とまでいわしめるようになる。それほどこの会津の小さな峠、市野越えは彼女の心に残る旅の一日となったのである。

私が訪れたのは晩秋、大きな切り通しのような峠には、山ぶどうが実り、垂れ下がった細い一本のもみじが洩れ陽を受けてあざやかな彩りを見せていた。

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●結能峠(940m)  中西 章
大内をめぐる峠では、もっとも展望のよい峠である。大内側から登ると明神ヶ岳(1074.2m)が脇侍のように西にのびる支陵を従え、鋭角の頂をみせてくれる。少し結能側に下ると首なし地蔵があり、西空を区切る大きな山塊、博士山も見えてくる。

私がこの峠に立ったのは十月はじめ、この日は雨上がりの好天で、霞立ってお目当ての飯豊は見えなかった。今一度、冬晴れの日に来ようと考えながら峠の一本松に別れを告げた。


目次
表紙の写真「昭和五十八年春 針生総会・四方山荘前で」・・・中西 章
写真「大内をめぐる峠」・・・中西 章・・・1
写真「市野峠」「結能峠」・・・中西 章・・・2
昭和五十八年春 第45回針生総会報告・・・山田哲郎・・・3
過去十年間の総会場所と参加会員氏名

過去十年間の総会参加回数別会員氏名
過去十年間の総会参加率別会員氏名
沼越峠の南と北・・・森沢堅次・・・10
阿武隈日記・・・望月達夫・・・15
水郡線花の旅・・・森沢堅次・・・21

会員だより
編集後記・・・上野

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大内をめぐる峠 



● 阿武隈日記  望月達夫

十一月二十三日(火)休日 曇時々晴
雲はあるものの朝日が洩れて昨日よりずっと快い天気だった。笹川さんの車に高橋さんと三人が乗り、常葉トキワへ向ったのは昨朝と同時刻ごろだった。今秋は十一月中旬以降が平年より暖かく、まだ茶褐色の木の葉が沿道に沢山残っていた。

鎌倉岳山麓の天日鷲神社のある山根から、都路街道に分れて北進し横道へ行った。今日は笹川さんの希望をいれ、彼女もまだ登っていない竜子山(九二〇.九米)を目指してきたが、前に高橋さんが登ったとき訊いたという店屋で、もう一度登り易い所をたしかめた。現在は横道から下馬沢へ向って行って二つ目のバス停(湯ノ平とああった)から山側へ車道が入っているからそこから登るのがいいと教えてくれた。しかしチャンとした山径がある訳ではない。

車道は、まだ出来て間もなく、すぐ終点となった。そこへ車をおいて出発したのが八時三十五分。最初は枯草のゆるい斜面、そこから笹の茂った藪を分けて右手の小曽根にとりつき、それをどこまでも登ることにした。高橋さんが前に登った所とは違うようだが、それも径があったわけではないという。九時二十分に小曽根にとりつき一息いれた。尾根にはクヌギ、コナラ、ブナが生え松がまじっていた。下生えのない所は、急峻でも登り易かったが、背丈を没する笹薮に入り込むと、押分けて登るのに苦労した。所々に露岩も現れたが、うまくまいて行けた。かなり上へきてから巨岩を避けるために左へ進路をとった。そこから上を見ると頂稜が近そうなので、深い笹藪の急斜面を強引に登りきると、あたかも腰掛けのような形に木を組んだものがあり、あきらかに頂陵だった。

そこから左方が梢々高いので、そこまで登ってみたら北側が笹を刈って小広くなっており、そのすぐそばに綺麗な花崗岩の三等三角点標石を見出した。たかだか九〇〇米級の低山だが、全く径がなかったので一汗も二汗もかかされ、二時間はたっぷりっかかったので、この三日間に登った山のなかでは最も歯ごたえがあった。初めて登った笹川さんは、いかにも嬉しそうだった。

車のかげの風の当たらぬ所でゆっくりと弁当をとった。パンに熱い紅茶、ミルク、卵焼きなど。時間からいって、もう一山位登れるかとも思ったが、帰路の新幹線の混むのを慮って帰途についた。

途中、横道の南方から振返って竜子山に別れをつげ、カメラにおさめた。郡山で二人の友に別れ、二時三十六分の新幹線(やまびこ)に乗ったが、飛び石連休のため超満員だった。併し大宮まで僅か一時間十分だから矢張り早いと思った。三日間に亘る阿武隈の低山は、私にはなかなか面白かった。(一九八三年一月記)

(本文より抜粋)

編者注 「腰掛けのような形に木を組んだもの」 三角測量の台座のような木枠のこと
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by tabi-syashin | 2015-01-10 08:21 | iroribata | Trackback | Comments(0)