会津には古くからの地域山岳会が存在する。なかでも珍しい、職域で古くから活動する山岳会がある。「三菱伸銅山岳会」 知る人ぞ知る「会津の老舗」、職域山岳会だ。以前は玉川機械金属(株)山岳部だったが社名変更のため現行名となった。
そこでは「ふみあと」という会報誌を出しているが、その会報誌に寄せられた一文から 例によって「本元飯豊山」の文言があるので転載しようと思う。寄稿者はがっちりした体躯の森澤堅次さん。

「上三寄の町はずれから闇川をさかのぼった。10分程で菅沼、四ツ谷、高川、桑曽根、入小屋の村々を過ぎていた。闇川沿いの村々が細長いことを知った」、、、と記されており これが昭和六十年の話であるから今から20年前の話であろうか。1/25000図で845m峰、890m峰、961m峰の何れかが本元飯豊山であると記しており 文末に社殿裏手から30分ほどで890mと記してあるので それが本元飯豊山であろうか・・・この辺りの書きっぷりが 豪放磊落な森澤さんらしい。

さらに覚書によると・・・



神主を太夫様(たゆうさま)と呼び 5年に一度ずつ交代する。
今年(昭和60年、1985年)は加藤勝さんが太夫様。
加藤光雄さん宅には掛け軸が残っており、
9月7日は宵祭りがあり、18名ほどの男衆が集まるとの習わしを聞き取りしている。
祝詞は3回繰り返す
「あやに あやに ふすすくたふと いいでの おやまの かみの ねがいを おろがみ まつる」

社殿は昭和26年(1951年)8月6日の建立である。
金身体両大日大聖大権現などの御札が奉納されていた。

・・・とある。


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「会津名山案内」の大関さんによると・・・762mピークのあるところが高畑山とされていたというから 
森澤さんの890mを「本元・・・」とするこの記述は間違っていると思われる。
実際に登るのであれば、「会津名山案内」http://aizunogakujin.web.fc2.com/honmotoiidesanroad.htm を参照されたし。
GPS軌跡が載っているので 間違うことはない。



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この会報「ふみあと」には昭和40年ごろの貴重な飯豊山登拝の記録があって、、、
なかに、深田久弥の辿った山形県と福島県との県境に拓かれた登山道のことが記されていた。

牛ヶ岩山の尾根道は昭和37年にひらかれ 深田久弥はその年にここを通って五段山を経由し
熱塩加納村に下りていた。
五段山にはブナ林の急坂があり五段になっており、五段坂と名付けられた・・・ とある。

数え歳13歳の飯豊詣りの時には 先達からこう言われるらしい。。。
「悪い事をした者は ここで谷底に落ちる」と脅される。そう、ここが剣ヶ峰である。























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by tabi-syashin | 2015-11-13 19:24 | Mount Iide | Trackback | Comments(0)

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宿場町の名物婆さん





本元飯豊山(闇川)と 山都の飯豊山


何百年もめえの話だがぁ 判んねぇわし 
地夜ヶ嶽(思案岳)さ、姉と妹昼寝しに行ったんだど
起きたどぎ、自分の胸さ蓮の花が咲いていだら、
(その娘が)闇川の飯豊山へ
咲いてながッたら、山都の飯豊山へ行ぐ
と約束して 昼寝したんだど

そうしたら、妹はかしげぐって(ズル賢いという意味で) 
途中でそおっと起ぎで 
自分の胸に咲いでいっと思って見だら 
姉の胸さ咲いでだんだど、
なんじょしても闇川の飯豊山さ行ぎっちくて、
我がの胸さぁ蓮の花を持って来て、
また寝だんだど

二人が起ぎだっけが 
妹の胸にたしかに蓮の花があったんだげんちも
動かしたもんで花が萎れっちまって 
姉の胸から取ったのがバレたんだど
それで 嘘っこきは家に置がんにぃ と、
妹は山都の飯豊山さやって
姉が闇川の飯豊山に行ったんだど 

それがら闇川が本元飯豊山になって、
姉と妹が昼寝して考えた山を思案岳と
呼ぶようになったんだど



この話 私は子供の時分から年寄りに聞かされているし 
ここいら辺の人達は皆知っていて、
まるっきり でたらめな話ではねえと思うなぁ




*本元飯豊山・・・
会津芦ノ牧温泉近くに大戸岳があって その北に思案岳がある。
思案岳の麓に闇川地区があって、入小屋集落に本元飯豊山はあるらしい。 
確かめなきゃ。。。


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by tabi-syashin | 2015-10-12 20:07 | Mount Iide | Trackback | Comments(0)

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演歌にあるよな越冬燕ではないのでしょうけど・・・イワツバメ。
チュルリリ~チュルチュルチュルリリリ・・・鳴きながら飛び交っていましたね。
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ちょいと観点の違う 僕なりの紅葉感覚です。
人によっては もっと派手な紅葉を望む場合もあろうかと思いますが
まあ 僕なりの 地味目な紅葉です(笑)

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by tabi-syashin | 2015-10-10 07:00 | Mount Iide | Trackback | Comments(5)

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御西の「御鏡雪 ミカガミユキ」に 草履塚、御秘所、御前坂の影。。。




飯豊では 秋まで残る雪を・・・「おとぎ雪」とよんでいた。

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喜多方エーデルワイス山岳会 小荒井さん(飯豊連峰保全連絡会議事録より)

今日車に乗せてもらった時に会長さんから、「こんなに雪降ったのだから、今年は夏飯豊山に雪たくさんあるよ」「そうだよ、秋まで残るよ」というような話をしたら、そのような雪を「おとぎ雪」とおっしゃいましたので、よかったと思っております。

私20年くらい前に「おとぎ雪」という文章を書いたのですが、飯豊山の頂上付近「御西に残る鏡雪」なんというのは、弟がやってくるまで残っているというのは、会津の人たちはあのような雪を「おとぎ雪」と呼んだのですね。このような文化を残していきたいと思うのです。

今日のニュースレターの最初に書いてあった、梶川尾根上部のトットバノカッチの話がでましたが、こういうのも大事だなと思うのです。「カッチというのは会津の人たちは皆、一番上の頂上をカッチという」のです。どこの山も皆 カッチという言葉があるのです。

山頂近くという意味ですが、このような文化をいつまでも残していく、そしてそれを好きになると飯豊山をもっと好きになると思っていますので、このような活動を一生懸命やっていけたらと思っています。以上です。

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会津では 滝が少なくて、なだらかな勾配の沢を「峠道」のように使っていた。もっとも山菜取りや、隣村との行き来、嫁とり(近親交配を避けるため)、などに使うわけだけれど、、、人が行き交う沢を「みちぎ(道行)の沢」と呼んで山道でいう「峠」と同じ意味を与えていた。

今回の「おとぎ雪」だが、、、その読み方を考えれば みちぎ、おとぎ という読み方は会津独特の読み方で 福島あたりにはなく気になってはいた。。。「ギ」を行き来することと解けば おとぎは弟が行き来する となって 弟が帰ってきたり行ったりするという意味になるのだが・・・その深い意味を 雑念のように耽って考えたりもした、自分なりに・・・。



小荒井さんがいう「弟がやってくるまで残ってる」・・・この「弟が来る」「おとぎ」という言葉にどんな意味があるのか、自分なりに考えてみた。

昔は長男が家の跡継ぎだった。次男、三男、娘たちは 十五歳にもなると家を出て町場に雇われていった。 女は 給仕、女中、製糸工場の職工として町場に働き、男は 丁稚(デッチ)として旦那に仕え、小作制度の作男(さくおとこ)として、本家の一隅をあてがわれ暮らしたりしていた。寒い冬でも、ワラ布団に綿入れ丹前一枚、炭火鉢を当てがわれての下宿住まい。

家内制手工業の盛んな街で 男は酒造り、味噌造りや田畑、林業などの原業へ勤め、旦那様が商いをしていれば 薬屋 油屋 呉服屋 金貸しの商家の丁稚どんに、生糸などの製糸工場が盛んであれば年季奉公に女ゴは出ていたと思われる。すべての利益は「旦那様」に集約される近代資本主義なる時代背景があった。春ともなると、斡旋業者が村々にやって来て父親に支度金を渡し、尋常高等小学校を出たての子供たちを買い取るようにしてトラックに載せて町場の労働力として集めたといわれている。「女工哀史」などでも書かれたりしてた。

その弟や妹が「盆暮の繁忙期」を終え 旦那様からヒマをもらって「藪入り」で帰省することが ここでいう「秋に弟が来る」という一種の”季語”に変化していったのではないか と推測した。「おとぎ雪」という言葉は切ない意味で使われていたんじゃないかな。その言葉の裏には 家計のために若くして家を出て「丁稚奉公」、「年季奉公」に出た子供たちへの想いが秘められていたんではなかったか と思うよぅに至った。 

一つの単語から 世の中の仕組みやら 資本と労働の成り立ちやら 時代背景やら もろもろを考えるということは 近代登山史研究として洋の東西を問わず為されてきたわけだから 登山って奥が深い。けっして 経済効率的な スポーツ的な 一面的捉え方では済まないわけだ。(もときち)


藤島玄説によれば・・・
晩秋まで残る雪を「オトミ雪」と新潟では呼ぶ。オトミは「弟見」の意味。乳飲み児のいるうちに次の子を妊娠する、飯豊の残雪が消え失せないうちに新雪が降ることを乳離れしない子を持つ母親の懐妊とを喩えたもの・・・藤島玄によれば そう解されている。会津と新潟、同じ雪国でも・・・ 風土も 言葉も 謂れも 解釈も違うということか。

もときち的に考えれば・・・
冷静に考えれば、、、御西岳の南斜面にある鏡雪を望めるのは 三国岳から登拝に登った喜多方地方だけが残せる物語だろうということ。 喜多方、会津といった大きな町が登山口に控えているので、おのずと登拝口は弥平四郎か一ノ木になる。 「オトミ雪」というのは「おとぎ雪の内容」を知ったうえでの伝播だろうと推測する。たまたま「越後の山旅」が藤島玄によって先に上梓されたがゆえに 会津の「おとぎ雪」は本筋であっても 次席に控えざるを得なかったのだろう。

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草履塚からの飯豊本山

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切合小屋 裸地からの大日岳

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切合小屋からの草履塚


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御沢の源頭部に朝陽があたる
黄金色にもえさかる 錦秋の草紅葉
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戦前の日本の近代資本主義について、、、 母方の実家を例になぞらえて少し補足しておきたいとおもう。 実際に私が小学校に上がるころまで GHQから「農地解放令」が出てからも 旦那制度は続いていたという事実を 母方の実家の話で実証してみようと思う。

戦前、福島あたりでは、、、旦那様は「だんぽ」と呼ばれ、若旦那様もまた「若だんぽ」と呼ばれていた。話はそれるが ちょっと呆け気味で、のほほんとした人を、小バカにした呼び方で「この だんぽやろー」と云うのがある。旦那様というのは自分が何にもしなくともお金がどんどん集まる経済的な仕組みであり、金持ちの息子にはアホなヤローが多かった、「ボンボン」という意味合いで「ダンポヤロー」だったんじゃないかな? ま、俺もか(笑)

大農家との違いは、旦那様は手工業も含めた経営者であり、地元の政治家でもあるという点。農業や家業、生業は全て使用人が働き稼ぎだす仕組み、その稼ぎが旦那様の懐に集まってくる旧家のシステムだ。

また戦前の名残で母方の実家では 小作人も働いていたし女中もいた。孫や子らは 「サクー、サクー」と小作人を呼びつけていた。線路の向こう山の杣、鳥夜野(とやの)という所に女中の実家があると密かに聞いていた。何故かそれだけ今でも覚えている。屋敷のまわりは松や樫の屋敷林(イグネ)が囲ってある。家畜は牛・ヤギ・ウサギ・鶏・チャボなどが飼われていた。田畑同様、家畜の世話は小作人の仕事だった。

庭には井戸があり「手こぎ」ポンプ、家の飲み水は別井戸で「電気」ポンプで汲み上げていた。大きな池もあった。使用人の洗濯は池の傍の小川でなされていた。味噌蔵、米蔵などの他に養蚕業が盛んなころで記憶の片隅に糸紡ぎ機の跡もあったような。さらに隣の縁戚の家は造り酒屋もやっており煉瓦造りの大きな煙突があった。当時の電気製品では無いものがなかった。

夏の午後、暗い屋敷に入ると目の前が真っ暗になり目が慣れるほどに薄暗い中に土間囲炉裏が見えてくる。小作人や仲居女中たちが食事をする場である。隣に土釜や蒸籠があって裏木戸に近い所に農耕具が備えられいた。

座敷に上がると座敷囲炉裏があり見事な自在鉤が下がっており、伯父たち家族が座る板間の下座、冬になると囲炉裏に鉄格子がされ綿布団がかけられ練炭が入った。ぬくぬくとくるまると時おり猫が顔を出した。

祖父が身構える上座は畳敷で一段高かった。祖父は行くたびに赤札か黒札かをくれた。今でいうと、正月は安くて1000円か高くて10000円、夏休みなど500円か1000円程度の感覚かな。懐から財布を出してペロっとくれたもんだ。

食事は女中たちによる配膳だった。台所は板間で大きな食器棚と戸袋があって、普段の食膳も地域の宴会の配膳なども全て台所で準備する。膳を用意して居間まで運んでくるのも女中方だ。

昔は国会議員や県会議員などは当たり前に旦那様宅か、その縁者から輩出された。母方実家もその流れで政治的宴会も多かった。当時、日本酒(清酒)は高級だった。普段は濁酒か三増酒か焼酎をかっくらってる男たちがこの日ばかりはこぞってやってきた。宴席では必ず清酒が振る舞われるとなれば、ここぞとばかり飲んでへべれけになって男どもは帰宅する、途中道路で寝込んでしまう向きも多かった。

とまあ 旦那様といわれた戦前の「近代資本主義」「本家・小作」の名残があった時代、戦後10年ほどはあったという話です。おそまつさま。








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by tabi-syashin | 2015-10-09 07:20 | Mount Iide | Trackback | Comments(4)

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今回の飯豊山中に出遭った道標を集めてみた。繁華街通りというかメインストリートというか・・・そこは立派で金もかかっているが、メインを外れてしまうと・・・途端に 朽ちかけていたり 藪に埋もれていたり ペンキが取れかかっていたり 様々だった。この山はメンテナンスが為されていて 余るほどの順路掲示がされており 十分すぎるほどだった。

で、こちらの各種道標ですが 皆さんはどのように捉えておられるのでしょう? 道しるべがあれば 迷うことなく目的地へ向かうことができますから 皆さんも少しは頼りになさっておられることでしょう。じゃあ、ここが未開地なら・・・どうされるでしょ? 里山でさえ、、、「役場に文句を言う」という方がいました。古い道標は撤去して新しいのに代えろ!だそうです。道標を予算化できないところは・・・、例えば山岳会とか有志の方が 自分たちで作って立てているようですが?

沢ヤは もともと道標なんてないところを進むので ほんの時々、帰り道に夏道を利用しますが それ以外ほとんど無関係です。自分の人生に勝手に道標を立てられて そのコース取りで歩め! と言われて それでも良いとでも考えるんでしょうか? 

沢ヤあがりが「言いたい放題」語ってますが 自分で右に行くか 左に行くか 考えて行動してよ と 沢ヤならいうんでしょうね~。

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大日杉小屋で同宿となり 翌朝から一日ずうっと一緒に歩いたKYBさん。三年前に亡くされた奥さんの遺影を胸に 写真に語りかけながら歩いておられた。なかなかどうして そうそうできることではない、3年ですから・・・ね。奥さんを亡くされて それに代わる、新たな生き甲斐を強く求めておられることが お話の中で理解できました。


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そもそも道標ってなんでしょうね? 一里塚のように指標の具象化ではあるんでしょうが・・・、具象化できない道しるべもあるんでしょう?、心の中に。。。その「導かれたい」という人々の概念的な思いが 「道標」として具現化されているんじゃないか? って僕は思うんです。

沢を歩いていると、道しるべこそないのですが 危険な方向に挑んで右へ進むタイプと危険なものを察知して回避するように左へ進むタイプの両極の人間がいる というのが私の20数年の観察眼です。左に行く人間は 時々 右へ進む人間に「我が意志を包含され」引き摺られることもあって それが事故、事故死へつながるケースが多いようにも感じます。

安全を求め導かれたいという思いが・・・死につながることもあるわけで、「人生の道標」ほど自己とのかかわり合いを強くもつ性格(因果)のものは他にないですね。
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この道標は剣ヶ峰の下部にドンと立ってましたね。カッコ良かったです。。。
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地藏小屋跡への分岐。ここは 看板だけ?・・・で、いいんでしょうかね? 雪崩で倒されるような場所ではないけど 熊にかじられちゃう場所ではありまする。
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御前山の標識。
木ヘンに豊という字をあてて・・・?何と読むのでしょう? 
示すヘンに豊なら「れい」「らい」と読むんですが、、、「れいのいけ」?「らいのいけ」?

どなたか 教えてください。、と書いたら・・・さっそく トラさんから返事が書き込まれました。以下の通り。

「オ豊」は「おとよ」つまりカタカナのオと豊で、おとよという女性の名前なのだそうです。
私もひとつの漢字との思い込みがあり、おとよとは想像もしていませんでした。
願わくばオをもっと大きく書いてもらいたかった。柔軟な思考が出来なくなりつつあるオッサンのお願いです(笑)

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わざわざ 小国のイノクニさんにお尋ねくだすってありがとうございました・・・おかげさんで解決! トラさん ありがとう! 

深田久弥一家が藤島玄の案内で登った、19番目に紹介された東北の名峰「飯豊山」の項、これを紐解けば・・・

「私たちはまず北側から朳差岳に登り・・・帰りは牛ヶ岩尾根を辿って五枚沢に下りた。その初めと終わりには雲母(キラ)温泉と熱塩(アツシオ)温泉という結構な宿りがついた。私たち夫婦に二人の息子、玄さんとそのお嬢さん、それにポーター役の若者が二人ついて、賑やかな一隊でのし歩いた。殆ど雨に会わず、時々雲や霧が趣を添える晴天続きで、まことに楽しい山旅であった。」とある。

この楽しい山旅に参加した中に、藤島玄の娘 豊子がいた。地蔵山の最も東側にある池に 久弥が授けた名は「お豊の池」・・・とまあ、こういう所以、ワケだったのである。

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牛ヶ岩山。気持ちのいい場所でした。時間があれば ラーメンこさえて時間の限り ノンビリしたいところでした。

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五段山のY字路



有名山に登って、記念樹のような「記憶の標識」を立てることが最近多くなった。

誰しも、流れる時間を先の先まで読み取れる人はいない。人生の先の方、未来を見通す力は誰しもないものだ。じゃあ、過去ならどうかというと、それなら簡単に振り返ることができる。なので老後には「記憶の標識」めいたものが欲しくなる。分かりやすく区切ったその標識一本ごとに未完の人生を完成へと近づけるわけだ。

振り返れば・・・人生の節目をそのつど祝ったり味わったりしてこなかった、ただただ走るだけの人生、、、それに愛想を尽かした団塊世代が 己の「記憶の標識」の少なさに気づき 「余生を有効に過ごしたい」と一様に焦るのには そういう事情があるのかもしれない。

だからといって・・・いきなり深田久弥の百名山や海外の山でなくともいいだろうに、と東北の藪山ばかり歩いてきた私などは思うのだが 百名山志向の方に云わせれば、それはやはり名山であればあるほど記憶の襞に刻まれるものは深いもの? らしい。まして友達の少なくなる末期を考えれば なお淋しい。ならば、名山も海外へも同好の仲間とでかけよう みんなで渡れば怖くない 団塊の初老たちはこのように考えるらしい。
  
若い時分は今日この日の記憶など 翌日の記憶があっさり塗り替えるものと思っていたのだが、「時間はまだある、次回にやろう」と高をくくっていると・・・いつしか途端に還暦だ。一日一日が大切になり もう一度登ってみたいと焦がれる山への想いは 喉を乾かす熱砂のようにもなり、人生の終わり加減にひと花咲かせたいと思うようにもなるのである。

団塊の男たちは大抵そのような「できなかった やり残した 残念」などを心に宿しているものである。分かっているのは 若い日の記憶や、「あんときの体力」との戦いになるだろうということ。それはガッカリもさせられるが、還暦の身にとって今を知るのは重要であり、大袈裟にいえば過去と今との真剣勝負のようなもの。終焉の渕に誘いだされた人間の「ひと花」を如何に美しく咲かせるか 自己体力との競い合いみたいなものだ・・・(笑)


















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by tabi-syashin | 2015-10-08 17:29 | Mount Iide | Trackback | Comments(3)

五穀豊穣を祈る信仰の山

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御坪近くのキャンプ地から本山を覗う


喜多方市の観光案内によると・・・ 福島・山形・新潟三県にまたがる飯豊山は、古くから五穀豊穣や成人儀礼の山として、多くの人々が登拝する信仰の山である。飯豊山登拝は、十五才の少年たちが白装束に身を包み、水垢離をとるなど身を清めて臨む。先達と呼ばれる案内がつく。こうして無事、登拝すると一人前の大人として村から証認される習俗が昭和20年代までみられた。

山都町一ノ木は、飯豊山登拝の表山道にあたり、登拝者の宿が多く連なっていた。一ノ木にも里宮としての飯豊山神社がある。飯豊山には一王子社を本社とし、五王子社まで五社があり、これを合わせて五社権現という。一ノ木の飯豊山神社には、五社権現の本地仏である五大虚空蔵菩薩像が保管されており、夏の登拝時期にはこれらを山頂の飯豊山神社に移しまつる・・・とある。


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本山から右裾に大嵓尾根を連ねる



先日伺った一ノ木集落には五社権現である飯豊山神社の遥拝所もあった。すべての村人の生活に必要、密接な食糧が水害 雪害 風害 干害に遭わぬように昔から御祈祷されてきたわけだ。

つまり、ここには感謝をするための登拝の順路、順序があるようにもみえる。まずは、一ノ木集落に伺って里宮である飯豊山神社にお参りして、一ノ木の里で五穀(お蕎麦・餅など)を戴いて その感謝を込めて 一王子まであがって 二王子 三王子 四王子 五王子と極めて山頂に立ち登拝を終える こういう流れにあるのではないか? と勝手に思ったのである。たぶん そうすれば 晴れの天気に恵まれるヨ(笑)

それにしても大日杉コースは 御田からの登路は見事な紅葉の連続だった。

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もりっもりっとした山毛欅林が御坪までつづく。


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御坪(庭園)からは・・・ ダケカンバに代わる
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七森の横顔が見えてきた
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山岳会の先輩は「海から山へ」のエッセイを多くしたためた。山は海から標高を高めていくもの、山の水は海へと流れるもの という概念からだが。 その山へと向かう街道の途中で、胡散臭い見知らぬ「旅人」に声をかけてくれて、触れ合った地元人との温かな心の交わりに どんと背中を押されて山に登ってきた、とも言っていた。「海から山へ」シリーズの根っこがそこにある、それを大事にして山に登れ と。

車社会になって、誰もが簡単に行け、誰もが日帰りピストンする山登りが主流になった。山も軽くなったもんだ。仕方がないのだが 世の中が「さすらいの旅人」を拒絶したからでもあるか・・・。スローライフは「奇人・変人」扱いの現代社会だもの。きっと、そう、、、なんか今、昔の自分の姿を見たって感じだなぁ・・・、異端者。異教徒。変人。偏屈もん。よくもまあ、白い目でレッテルを貼ってくれたもんだ (´;ω;`) 

もっとノンビリと、民間企業では無理もあるか?、たとえば有給休暇を取得して バスやJRを利用しながら山を旅すればよいものを。。。それが無理なら、山旅を味わう心の醸成に努めてはくれまいか。スポーツ的側面と経済的効率とで山を捉えるってのだけは もう勘弁してくれ給え、お若い諸君! 


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by tabi-syashin | 2015-10-08 09:29 | Mount Iide | Trackback | Comments(2)

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とりあえず 今夜は写真だけ・・・草履塚で6:30ごろ、大日岳を朝日が照らす。。。




10/06
大日杉小屋6:30-ざんげ坂通過7:30-長之助清水7:50-御田8:05-滝切合(鍋越方面は藪)8:50-地蔵10:20~10:40-地蔵清水(涸れ)10:50-目洗清水11:50-御坪(ランチ・撮影会)12:30~13:20-御沢(洗顔・ビール冷却)14:00~14:20-切合小屋14:30 
撮影タイムとランチタイムを入れながら ゆっくり進んで8時間でした。若者は6時間です、ご参考までに。。

10/07
草履塚往復(撮影30分)-切合小屋7:10-種蒔-七森-三国8:15-剣ヶ峰(ガス展望なし)-地蔵9:15-御前山-五枚山-湿地帯-牛ヶ岩11:00-五段山11:45-大日杉小屋12:40

印象深かったのが・・・紅葉の中、水平に切られたような地蔵山から牛ヶ岩までのパノラマラインだった。 広い山道で刈り払いがしっかりされている。 歩く人がいないので地面がフカフカだった。アップダウンが最大でも70mほどの僅かな差。紅葉の中、遠くまで見渡せて歩きやすかった。 

深田久弥一家は三国岳から続くこの道を五段山に下り、さらに谷地峠を越え、熱塩加納村の五枚沢集落へと下山した。つまり五段山から先、 川入切合 谷地平分れ 赤崩山の谷地峠まで 残りを歩かなくちゃならん(笑)

それと初めて歩いた五段山から大日杉小屋までの細尾根の下降ルート。ここも行き交う人が少ない。みごとな電柱ブナと姫子松の太い木が尾根上にある。それはそれは素晴らしい尾根だった。今回は大日杉小屋から反時計回りで進んだが、、、疲れている中で、三国から登り返しもほとんど労苦無く、下降するだけのラクなコース取りだった。



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切合小屋から南東方面は 幾重にも波立つ雲海だった。中央あたりに 磐梯山があるはずだが・・・もりあがった雲がそれを隠している。


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草履塚から 朝日に照らされた本山。 三脚を立てているカメラマンでもグラついていた。
風が強くて カメラを構えたまま身体が吹っ飛ぶんで もう 最悪でした。



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剣ヶ峰の岩場で健気に咲いていたアカモノの花

三国小屋につく手前、七森の岩場あたりからガスに包まれた。風も出てきている。おまけに剣ヶ峰の岩稜は左右が切れ落ちている。バランスを崩すほどの風に緊張して降りている中、アカモノを見つけた。こっちも嬉しくなって身体を屈めてその白い花を見つめた。小刻みに濡れた葉を揺らしていたが、やがてこの寒さでは、花も凍ってしまうだろう。。。

藤島玄によると・・・、剣ヶ峰を中心に両側は数百メートルに亘る露岩帯。タカツコ沢の源頭を「天狗の橇(ソリ)乗り場」と表現した。タカツコ沢は大白布沢の源頭部にあたり、剣ヶ峰の南側の沢。雪崩跡のアバランチシュート群である。


>アンダンテさん
剣ヶ峰、ここは死亡事故のあるところ、ほとんど下山時の事故。三点支持は勿論ですが、バックステップができずに=前向き(岩を背にするような恰好)で降りようとすると、足元が見えず、さらに背負ったザックが岩角につっかえて身体が前のめりになり 滑落してしまうようです。コース取りによっては下山時に「初心者にはロープの確保が必要かも?」という所が2個所ほどありました。

対策として、、、バックステップで、三点確保で、足元を覗きながら、降りることが肝心です。。いづれ 棒立ちのまま岩の上から下部を覗うと怖さが倍増します。膝を折って、ザックをぶつけないようにゆっくりと屈んで、、、3m先、5m先の足の置き場、目標となる着地点を見定め、バックステップで降りることが 安全下降のコツとなります。それでも岩場が不得意なら ブッシュ際に下降すると意外に活路が見いだせたり、楽だったりします。

追記
登りに関しては基本通りに三点支持で移動すれば上に行きます。岩に向かってなるべく正対して「足のスタンス」さえしっかり取っていれば「手(ホールド)はバランス保持の役目」でOKなんです。その際に岩から体を離して立てるかどうかです。岩から体を離す意味は 足の運びと 次のステップ(スタンス)を目で確認するためです。ここが運動能力というか 個人差の出るところです。

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五段山から大日杉小屋まで立派な尾根道が開かれている。歩く人はほとんどいない。よく切り開かれた路だ。途中にロープ箇所が出てくるが、しっかり保全されており安心して身を任せられる。800m付近まで降りてくると 左へと緩くカーブしながら下山路は杉林まで続く。

ピンクテープに導かれ、杉林の道が白川沿いになるころ・・・、五段山から約一時間、白川に架けられた吊橋を渡ると小屋は直ぐそこ。 吊り橋はザックが引っ掛かって乗り込むのに苦労した。対岸に渡されたケーブルは錆びており、ささくれ立ってる感じなので 握ると指に刺さるので軍手などで対策されたい。あとあと疼くように痛む(´;ω;`)

飯豊トンネルにある川入切合登山口を利用する登山者は少ないけれど若干はいるようだ。靴もカモシカの蹄も一緒に並んで足型があったし、切合小屋で出会った老夫婦が帰路に採ると言っていた。どの登山口よりも標高が高く どの登山口よりも幅広い水平道があり、利用する価値があるのだが、、、皆さんは川入か弥平四郎を利用なさる。三国小屋までスムーズに移動できると思うんだけど・・・もったいないな。。。

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by tabi-syashin | 2015-10-07 20:15 | Mount Iide | Trackback | Comments(2)

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来たついでに、喜多方の旧車仲間のナカムラ君に電話して何処の蕎麦がいいか?あらためて尋ねた。直ぐに、一ノ戸川を挟んで対岸、高野原集落の「長谷川蕎麦」と指定してきた。

一ノ木の本村は30戸もあるか? 対岸、高野原集落は10戸もあるか? そのどん詰まりの農家。ここはほとんどが長谷川姓、屋号で呼んでいるのだろうか? 彼の親父さんが食通でいらして、蕎麦なら「一番奥の長谷川で食え」とのこと。出向いたのだが おかあさんが出ていらして 頭の手拭いをとりながら、申し訳ないと不定休日を詫びていらした。「せっかぐお越しくだすったのぬ・・・」 これを言われたら黙るしかなかった。

帰り路 一ノ戸川沿いの一ノ木の本村集落をロケハン 写真に収めてきた。次回は三脚とモノクロに強いSIGMAを持参して、一ノ木、川入、藤巻、弥平四郎の村々を撮るのもいい仕事だな~と思いながら 眺めてきた。 

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大内宿のように道の両側には民家や農家がずらりと並ぶ。藁葺きか茅葺か? トタンをかぶせたので分からないけれど。。。
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消火栓の高さにご注目あれ! ここまで雪嵩があるんでしょうね。。。
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夕焼けの町や村を モノクロームで撮る腕があるといいんですが・・・
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by tabi-syashin | 2015-10-01 20:19 | Mount Iide | Trackback | Comments(5)

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一ノ木への途中 川入切合登山口も調べてきた。

ここの県道はいっつも崖崩れで通れなかった。林道そのものだった。今は片側通行部分もあるけれど 立派な気持ちのいい山岳道路に大変身している。山形県は銭をかけてるなぁ、と感心する。標高は800mを越え 飯豊では最も高い登山口なのかな。ここから五段山に登り、静かな山旅が地蔵山までできる。川入が込み合うときなどエスケープ登山口にするとよい。また大日杉からの周回も面白そうだ。雪解けの季節は吊り橋が厳しそうだが・・・秋なら平水になって周回コースに使える。

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川入にやってきた。この写真に向かって左へ、登山口には車で入れない。ここに駐車して御沢野営場まで徒歩のようだ、30分程歩くかな。
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ここ川入集落は思い出多いところ、何といっても圧巻は山岳林道だ。川入集落から5,6キロ下ったところに藤巻集落への分岐がある。西会津町からここまで林道を四駆で走り抜けたことがある。20年前だが それまでいろんな林道を走りとおしてきた山岳会員の私でさえも躊躇するほど、、、そりゃあ大変な道だった。月山でたとえると 旧六十里越をガードレールのみの未舗装道路を走るよりタチが悪い。

弥平四郎部落から稲荷峠を通って藤巻部落を通ってこの県道に出るまで、山岳道路の「極み」で路肩すれすれを走るのだ。グチャグチャ道路でガードレールなど無論ない、谷底まで真っ逆さまだ。抜けて「いいでの湯」が見えた時には じつにホッとして仲間と笑いあった、よほど緊張したようだ。数年前の会津大雨激甚災害の際に大かた崩れて不通になったのだろう。今は工事中で藤巻から先は通れない。弥平四郎までなら宮古蕎麦の集落を通過して大迂回しなければならない。


で、、、 今回の試走は・・・ どちらを経由すべきか?という疑問点をクリアするためなんだけど どっちも似たようなもので大差なかった。 

宮城県の私なんぞは 飯豊北部なら新潟足ノ松か大石ダムになるだろうし、朝日の五味沢集落や飯豊山荘などにも通いなれた道だ。飯豊中部へも 玉川沿いを走って梅花皮・石転び雪渓か丸森か梶川尾根になるだろうし・・・。飯豊南部だけは2通りあって選択になる。山形・米沢からの大日杉小屋か 会津・喜多方からの川入か弥平四郎になるんだろ おそらく・・・。(加治川の湯ノ平へは 今年改修され通行できるそうだが 全く土地勘がない)

仙台からだと、飯豊南部ならば高速を使わずに R286・笹谷・山形・長井・手ノ子経由で大日杉に入って前泊した方がいいと結論付けた。手ノ子からの道は以前と違って、走っていて実に気持ちがよかったし ストレスフリーの舗装県道、まるで疲れないんだから。喜多方からだと・・・一ノ木までは道が狭くてカーブの多いガタガタの舗装路。それに「惰性になる部分があり居眠り危険」!と いつも走ってるせいもあるが、福島を出るまで国道4号なので誠に退屈、、、それに平日の高速料金は高いので会津坂下ICまでって、、、コスパ的に 果たしてどうなのかな?と。 









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by tabi-syashin | 2015-10-01 18:07 | Mount Iide | Trackback | Comments(2)

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翌日、大日杉小屋まで移動し野営場を下見した。 山形県側の登山口である飯豊山荘と大日杉小屋。かつて飯豊山荘の軒下コンクリに幕営し 石転びに登ったものだ。飯豊町(旧)中津川地区のここ大日杉野営場もいいとこだ。飯豊登山口の中でも山形側登山口は県の山岳観光に対する理解があってか?かなり設備・道路等が整っている。昨夜、ここに幕営すれば良かったかなぁ、後悔した。ついつい新潟、新潟って気ばかりで 山形の記憶がすっ飛んでた。

この小屋にも薪が積んである、一斗缶で焚火ができるぞ、火消しの沢もあるし。ちょうどに下山された方々と駄弁ってすごした。「下山簿」を拝見、登山ブームではあるけれど、昔と比べてけっこうな利用者数だ。昔は地味な登山口だったが。今度飯豊に来るときは「大日杉小屋前の芝生」と決めた。無駄に地蔵岳に上がるのが厄介だけど・・・懺悔することないし(笑)、森に囲まれたチョッピリ空間というロケーションがいい、波長に合ってる。一ノ木登山口の御沢のだだっ広いキャンプ場よりこちら大日杉小屋は自分らしい野営生活ができそうだ。水洗トイレでないからね 九才 それが残念。ここから登って切合小屋のテン場で幕営し、本山と御西、大日岳を眺めるのが「写真好きには適っている」。もうオッサンなんだしぃ 欲を張らんわ・・・

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風が出てきた、雨もパラってきた。今日のお山は大荒れだ。さっそく野営場のテーブルに持ってきた食糧を並べ 小手先不器用ながら下拵えする。昨日は 野菜かき揚蒲鉾にネギをたっぷりと入れた「さつま揚げ饂飩」だったが、疲れた移動日には水分が摂れて最高だった。今朝は「たっぷり野菜のミネストローネ300g」というレトルト品を温め パンをかじった。このレトルトであれば・・・、アマノフーズの「ブロッコリーのミネストローネ」フリーズドライのほうに軍配を上げる。150㏄の湯で溶くだけだが自信もって推薦できる、格段に旨い。

今日のランチはコジャレてミートソースだ。玉ねぎ、トマトを刻みニンニクを潰してコトコト煮あげ(BOSCOで炒めたほうがいい)、それにキューピー・ミートソースを加えた。多少、水を加えたがソースが濃いので特に問題はない。パスタは100g分量。3分で湯切りしてBOSCOをかける。ここでは水処理が楽にできる、川があるので 川砂を使えば食器洗いも簡単に済む。キャベツを適当に切ってビニール袋に入れ、「アンチョビふりかけ」をまぶし、残った野菜類も適当に刻んで小袋にいれ、「イタリアンドレッシング 25ml」をかけそれぞれ揉んだ。これら小分け(少量パック)で売られている調味料たちがキャンプ料理のミソなんだと思う。美味しいんです!味付けが・・・つくづく。ヨークベニ◎のソースマヨドレ コーナーに行けば見つけられる。

これで、ビールがあればいいんだが・・・岳谷(タケヤ)まで戻って釣堀りの食堂で譲ってもらうってのも考えた。が、気が引けるぞ。譲りを乞うなんて、男のメンツが泣くって(笑) 飲んでしまえば マジ2泊目幕営決定となる。というわけで、、、フラフラ徹夜状態で登るよりも、一日休みを取るつもりで ココ大日杉を利用すれば、、、安全な登山ができるはず。この「前夜泊」という対処もセルフレスキューの骨格の一つ。

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話は変わる・・・いつもの小言だ(笑)

登山届を綿密に書き上げる・・・、大日杉登山口に提出されたこちら村田町の方は 村田5:00・遠刈田・七ヶ宿・高畠・小国・飯豊山荘(バイク残置)7:30・手ノ子・大日杉8:30という計画書を提出しなすった。村田を5:00に出て途中の経由地点までの距離と到着時間とを記しながら、飯豊山荘に7:30に着くとある。これほど几帳面に「何キロ走って、何時何分に、どこそこに至る」と積算して計画できる方は 計画書を作るのがそもそも楽しくてしょうがない人種なんだろう、人柄が見えても来そうだ。しかもパソコンで出力したキレイなもの。 自分なんか大雑把だし、計画通りに行きも帰りも通ってないし(大きな声でいえないけど)、まして手書き派だから、見習う必要があるくらい。

如何せん、これにオチがついた。「大日杉小屋9:00・地蔵岳10:30」になってた。この登山口を初めて登る人らしい。この時点で「独り善がりで記された計画書」なんだろうなぁ・・・、二泊三日の荷物を背負って1時間半で?、トレランでもムリかな。標高差1000mもあれば優に3時間はかかる・・・、どんな計算しとるん。それでも救いは、切合小屋泊16:00と記されていたこと。予定コースの途中、途中に残りの1時間半を細切れに分散させたのか?帳尻だけは合っている。

バイクまで車に積んで周回を試みる・・・「効率」優先な方なんだろう。素晴らしい!と 今ならヤマレコ会員やブロガーたちから大絶賛される?w。。。ひと昔も、ふた昔も前ならば、電車とバスで登山口に一泊しそれから2泊3日の縦走を楽しんで、下山口の温泉に泊まるか、また夜行とバスとで帰ってくる 「さすらいの旅人」風が多かった。 そのむかし、山は「旅」そのものだった。 大袈裟に言えば、覚悟をして全山縦走という「山旅」に出たものだ・・・覚悟をして。 そう語られていた・・・ってことを「細切れ登山」ブロガー諸君は 少し考え直してみようよ。爺イからの提案だ。




山岳会の先輩は「海から山へ」のエッセイを多くしたためた。山は海から標高を高めていくもの、山の水は海へと流れるもの という概念からだが。 その山へと向かう街道の途中で、胡散臭い見知らぬ「旅人」に声をかけてくれて、触れ合った地元人との温かな心の交わりに どんと背中を押されて山に登ってきた、とも言っていた。「海から山へ」シリーズの根っこがそこにある、それを大事にして山に登れ と。

車社会になって、誰もが簡単に行け、誰もが日帰りピストンする山登りが主流になった。山も軽くなったもんだ。仕方がないのだが 世の中が「さすらいの旅人」を拒絶したからでもあるか・・・。スローライフは「奇人・変人」扱いの現代社会だもの。きっと、そう、、、なんか今、昔の自分の姿を見たって感じだなぁ・・・、異端者。異教徒。変人。偏屈もん。よくもまあ、白い目でレッテルを張ってくれたもんだ (´;ω;`) 

もっとノンビリと、民間企業では無理もあるか?、たとえば有給休暇を取得して バスやJRを利用しながら山を旅すればよいものを。。。スポーツ的側面と経済的効率とで山を捉えるってのだけは もう勘弁してくれ給え、お若い諸君! 

JR山都駅で降りて、町営登山バスに乗って川入の民宿に泊まり宿の味噌汁を飲んで、いよいよ今日 飯豊に登る。北股まで進んで梶川・丸森を急降下してもよし、縦走を続けて奥胎内に下りてもよし タクシー予約で胎内ホテルまで出て バスで日本海、胎内駅に行ってもよし 近くの温泉に泊まってもよし。ついでに秋の三面川河口で塩鮭の塩梅を試してきてもいいじゃぁないか。一つの山旅が君の「人生賛歌」に加わり変化する断末魔がそこにある。不便を乗り越え世間の多くと触れ合う、その時君は、爺イの言ってることを理解するだろう。




自分の人生なんだから 自分がそれでいいと思ったら それが一番いい。が、簡単にそうは言っても なかなかそうはならないのがこれまた人生。その人生を休むことなく、「そんなに生き急いでどうするの?」 もっとゆっくり、「山旅」を愉しめないのかい?・・・てこと。自分は18歳から山を覚えて、福島・仙台で沢ヤ稼業を20数年も過ごし、仕事の関係で岡に上がって10年程のブランクがあり、さらに定年で再び、夏道を歩き始め5年目の今なんだが、、、再開して気づいたことは、、、すれ違う老人、否そればかりか 行き交う登山者の誰もが同じ匂いをさせてるってこと。

人任せ登山、日帰り、料理せず、素ラーメンにソーセージ、幕営せず、ピークハント、天辺まで登らないとせっかく来た甲斐がない症状、雷雨に歩く、冒険と危険の違いも分からず、無駄せず遊ばず効率一番、CT命、個食、ソロ指向、その土地に金を落とさず、蘊蓄垂れ、泥臭さがない、そんな「華麗」臭漂う人に多く出会う。。。

あざとい生き方の例を一つあげようか・・・ショップの店員さんから戴く情報はたくさんある。その山の情報をたくさん持ってる。なのに ウェア、ギア類をネットで購入し続ける人がいる。お店で品質・機能、現物を確かめておきながら、購入はネットで!という「あざとい人」。ギアの購入も、山の情報も、山野での生活技術もネットで済ます・・・、となると、生身の人間がそこに介在していないではないか? つまり、人間関係を自ら断つようなもの。

山岳会にでも入っていれば別だが、、、山でピンチに陥った時にその脱出方法は誰も教えてくれない。でもショップの店員さんなら、そのギアの使い方ひとつの教示でピンチ脱出のヒントまでも与えてくれる。裏を返せば、人間関係を軽視し金銭問題を最優先させているとそれなりの山歩きしかできないってこと。ショップで尋ねてノウハウを会得することって意外に大事なんだヨネ。技術が身につかないでいる人ほど人間関係にも長けていない。その弱点は、深い山、雪山に行っちゃいけないことを衝いてるんだヨネ。。。




じつに思うんだけど、「山が勿体ない」なぁって。山で出会う登山者はセカセカしてる、休憩タイムの数分までもメモしてる。大らかに山を味わいながら歩いてほしいと思うんだが。 沢ヤを辞めたら、いつのまにか 自分の周りにはピークハンターばかり いたりする。いつのまにか ブログにアップすることがイコール山に登ったことになっていたりする。自身が感じとった山の感想は いつのまにか「素晴らしい!」の一言で終わらせ あとは写真のオンパレで行間さえも埋め尽くそうとしている。アップが遅れると「スミマセン!」と不特定多数に向かって 謝る・・・、これら、じつに不思議な現象だ。

いったい誰のための山やブログで、何のための山やブログなんだろ? 山への思い入れ、率直な実感、失敗談が書き込まれない平坦なブログを書いて 或いは読んで いったい君は満足なのだろうか? 深田百名山は深田久弥が旅して歩いて、登って、そして称えた「山の賛歌」だ。「100、名山記録簿」じゃないんだど。さらに 200名山、300名山だなんて いったい誰が決めたんだよ? そもそも「山を登ること」と「山を旅する」ことは もともと次元が違う。旅もせず、点から点へ移動して、深夜に車中泊、地元の民とは交わらず、ピークハントで、、、100、200、300って?、一体なんなんだぁ? 山をナメてんじゃないずぉ?(笑)




もう少し 別の観点で山を味わうってことができんもんかぁ。「余裕のヨっちゃん」的登山者ってここんとこ見たことない。老人はある意味、面白い?風変り?経験積んだ偏屈者?「独善家」風? 鉄人風? 哲人風? が 各種、各色、選りどり見どり、たくさん居るはずなんだが・・・山で出会う老人に限っては画一的で、なんかセカセカって、なんか下向いてて、なんか同世代として情けないんだなぁ。40になって急に登山に目覚めたからか? 50を過ぎて始めれば負い目もあるってか? 60になって年金もらいながら山に登れば後ろめたいってか?(それ、俺だっ 笑) 山をスポーツ的?効率的?に捉えるのが面白いってか?・・・誰しも そんな風なものなのか?

違うブロガーもいるぞ! 個性的なブログを書いてる「さすらいの旅人」もいるぞ。世の中 広いぞ! えっ?そんなヤツ知らねって?・・・ それはさぁ 求める心を君が持たないからだ。 それはさぁ 不思議現象に不思議だと思う心の回路が閉じてるからだよ。 そんな君は 人生の修行がまだまだ足らんと思いなさい なのだ。

いつもの小言だ 勘弁してけらい~ん。。。



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朝日連峰の五味沢で登山道整備に精を出しておられる「山さん」、彼のホムペ(「山さん」「角楢小屋」で検索すると一発で出る)を覗いてみてはいかがだろうか? 茨木から小国の五味沢に通って、私金で角楢小屋の保全と吊り橋を含めた登山道の整備と草刈りをなされている。いちど彼のエッセンスに触れたら 山に対する捉え方が変わると思うんだけど。。。

たとえば・・・利己的、自己中心的、自己満足的に山を捉えている自分が浮き彫りになってきて・・・、社会的に山を捉えている彼との視点の差、違いにきっと気づかされる。山行記録をブログに毎回アップして、今日も楽しかった~♪と記して写真を時系列で貼ってる自分が なんかヘンな人間に見えてきて、山を自己満足の対象としてのみ捉えているばかりで、山そのものを考えてなどいない。そんな自分が恥ずかしくなってくる・・・と思うよ。










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by tabi-syashin | 2015-10-01 17:49 | Mount Iide | Trackback | Comments(2)