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969mピークから臨む おおらかな吾妻の連なり わが故郷の山。


今日という日は コセコセしないで「おおらか」で居たい、とまあ変な感情が先行した。チマチマ登る山行にちょいとお別れして?、、、太っ腹な休日山行とするために? 朝の5時に家を出た、とても珍しい早立ちだ。 昨日読んだ岸さんの遺稿集がそういう気分にさせたのかどうかわからないが?、何十年も登っているとそんな気分の二度三度はあるものさ。

目指したのは大きな山、東大巓。「手軽な おおらかさ」で言ったら、おそらく 一、二だろう。雪があって 黒い森があって 白く伸びる木道があって その木道で自前のお弁当を開いて ビールを飲んで ツマミはキャベツ浅漬けと塩をふったトマト。完全にイメージ先行だ(笑)。そうしたかったのだから しようがない。まるで 幼稚園児だ。ゴンドラとリフトを乗り継いで 人形石から東大巓に下るものとばかり考えていた・・・ほんと、小学校の遠足そのものだ。


そんな郷愁を振り払うかのように、今朝のロープウェイ駐車場はやけに混んでいる・・・??? そそくさと下の駐車場に移動した。荷を下ろして準備を済ませロープウェイに行くと・・・扉があかないでないの。。。何度やっても開かない。ヘルメットのおじさんが来たので営業時間が過ぎてますよねえ? と、、、??? したら、オジさん、、、6月まで点検で動かないよ! と軽くおっしゃったでないの!貼紙が目に入らなかった・・・ で、読んだ! 6月27日に夏山営業再開??? ガビ~~~ン!。よくよく見回すと 今日は作業員の車で一杯、ヘルメット姿もいっぱいだった。天元台までは歩いて4、50分はかかる、、、その上のリフトも動かさないんだと、、、はて?

ならば、、、 近場の山に転向しようと結論を出して・・・向かったのが置賜駒ケ岳。しかも一番遠回りな西信濃沢コースだ。やたらと豪士峠コース登山口に車が置いてあって、20人ほど入山したあとだったので、、、それを避けた結果、最奥のコースとあいなったのだが でも、やり残している課題でもあるので一生懸命に登った。出発時間が9時半と、(5時に家を出たのに) いつもの遅めな登山になってしまったが、冬のコース確認ができたので御の字だ。しっかし 今日も、狙いとは大きくずれて、「チマチマ」コンパクト登山だった (´;ω;`)
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毎回、登るたびに美しい片流れだなあ って 思っていたが・・・実に今日も美しかった。
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200mほどを一気に登って969mピーク。その隣が990mピーク。50mおりて 最後は100mで完登。
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唯一の岩場である、ここが目の悪い人間にとって 難所だった。
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山頂の手前400mほどはブナロードだった。
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撮影データより
登山口発 9:30
尾根分岐 10:10 ここから967mまでが 細尾根で急登になる
969峰 11:20
990峰 11:40
駒ヶ岳頂 12:10
尾根分岐 13:10
登山口着 14:00

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673m.。。。融雪水の溜池ができていた。。。特徴的な お盆地形で どっちに流れを奪われるのか 興味がわく。
それにしても 何故 ダイレクトにコースを造らなかったのか不思議である。冬はダイレクトに山頂なのだが・・・???













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by tabi-syashin | 2015-05-17 18:31 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(17)

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昔、20年ほど前、、、山岳会の時に「栗子逍遥シリーズ」で数遍この山域に積雪期 入っております。万世大路を米沢砕石から2度、福島の旧飯坂スキー場から2度、豪士峠からと3度ほどになるでしょうか? その当時は今の登山ブームと違って 栗子に登るなんて馬鹿げてる?朝日や飯豊があるじゃないか?といった 有名山志向が強かった時代でしょうか? 山岳会にあっても、「ヒマだし・・・県境尾根でも潰しておくかぁ」 程度でした。

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特に今回の瀧岩上橋からの林道はほとんど整地されており 1時間半の道のりにもなんらストレスを感じることなく旧栗子隧道まで行けちゃいましたので、これだけ藪山ブームで多くの方が登られているんだなぁと感慨深げ?でしょうか。もちろん 失われた楽園的な・・・。。。

篤志家だけに残された山の楽しみは ネット時代の「トレース文化」によって誰でも登れる、「単なる山」に変化していました。思い入れの欠片もありません。こういう表現が当たりでしょうかね?

20年前は、瀧岩上橋から上部はすぐさま シシウドやブドウ蔓や崖崩れなどで 既に 藪漕ぎ状態で旧トンネルまで登ったものです。こうも見違えるほど もう自分にとっては大きな「隔世の感」があります(笑)
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さて 旧トンネルですが、その隣にある手掘りのトンネルと合わせて2つの坑道が半分雪に埋まって口を開けています。

明治時代に手掘りで掘られた坑道には氷筍が生えてました。ここは20年前 薄気味の悪いところ?のように記憶しています(笑) で、ここまで1時間半かかりました。20年前バリバリだった頃よりも1時間弱早いです。もっとも20年前はクリスマスのころで 降ったばかりの新雪でスタートからワカン装着でしたが・・・。

距離にして瀧岩上橋から4kmほど。途中途中に熊にかじられた白い標柱が5本ほど?立っているので まさに観光気分で歩けます。ただ熊除けの笛を吹いてから歩くといいかな? もし「思い入れの欠片・・・」を意図的に付けて登るなら、「七曲り」の標中付近に突き出た尾根末端から1087mピークを目指すルートもありかな? 米沢スキー場からもありだし・・・。
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今日の斜面ですが あれこれ考えたんですけど、、、最短で稜線に立つ、訓練バーンに向いている、休憩地点がある などを考慮してトンネル横の中斜面から稜線最低コルまでの谷状バーンとしました。ロケーションはよかったですね。ブナがあって、1000mからは霧氷の華が咲いていて、米沢が見えて、飯豊が一望できて、お勧めです。
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振り返れば飯豊連峰、米沢市街地、水窪ダム などが見えます。

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下部に近い斜面の雪は根アキが始まってました。下部の雪は緩んでましたが 高度を上げるとどんどん硬く締まっていき、稜線直下のブッシュ手前から50m下部はピッケルの石突も刺さらないほどの氷結バーンでした。

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訓練バーンは一番右のコル(画面中央部)に出る斜面です
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熊が出ましたね・・・
ピンボケ連発です、このカメラ。。。
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米沢砕石場


スパイク長靴登山について

最近 山もブームに乗っかり、多様化してきた。里山・藪山に入ってビニールテープのベタ張りをする人、化繊赤布を意味なく下げる人も多く出ているようだ。その点 里山は見苦しくなった。さらにスパイク長靴(スパ長)での山歩きにも問題があって どちらも「自然に異物を持ち込む」という点で問題があると言える。

でも もともと ネット公開そのものこそが 里山・藪山に大きなインパクトを与えているのだ と思う。篤志家たちが愛する「とっておきの藪山」をネット公開するというのは 功罪両面が含まれると思う。密かに藪山や里山を登る愛好家はなるべく自然のままで、そっとしておきたいと思うのが常と思う。

酷い記事になると 自分のブログで藪山を公開をしておきながら、「テープのべた張りは山を汚す」「山では自分の足跡以外は残すな!」と息巻く。自分がネット公開で多くの不特定多数の人を藪山に招いておきながら・・・他人には「足跡以外は残すな!」という。ヘンじゃないか?年柄年中 スパ長ハイクをやってる自分たちを棚に上げて このコメントは欺瞞としか言いようがない。

集団でスパ長ハイクすればソフトインパクトどころの騒ぎじゃない。自分たちは善で、他人は悪、、、こういう論理の根底が透けて見えるのだが 矛盾してるとは思わないのだろうか? スパイクで植根を荒らす、ピンが抜けてしまう、、、どちらも社会的行為としては恥ずべき。ビニールべた張りも、スパ長ハイクも、さらに藪山のネット公開も、 辞めるべき時がきた!と山愛好者として主張します。

時代が変わって もし我が子から 「スパイク長靴っ 昔 お父さん 履いてたの?」って聞かれたらどう受け答えしますか?・・・山岳愛好家としても、親としても 恥だよ。 キノコや山菜採りで必要なら 四本爪の軽アイゼンで充分まかなえるはず! 決心しましょう、「里山でのスパイク長靴は使用禁止」って。ネットでの藪山公開も自粛すべし と。。


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by tabi-syashin | 2015-04-10 09:57 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(4)

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大杭甲山 1202m

久しぶりに山に行けるので、「訓練」計画書をこさえた。栗子メニューです(笑)
栗子まで行って? ロープワークとピッケルワーク、アイゼン歩行術、笛の確認、、、???
それと退職記念に後輩たちから戴いたGPSの効能を確認など やることがいっぱいあります。

それは ただただ南会津を安全に闊歩するための備えです。たまにしか行かないから 事前の技術確認をすることは友人関係を続けるうえで重要なこと。うちの山岳会では「ああだ こうだ」といっても 現場は待ったなしですから。

冬季用アノラックは正解だった。だがインナー2枚でも 寒い、、、寒の戻りなんだそうだ。
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斜面は300mほどの中斜面(表面クラスト)から急斜面(氷結バーン)でした。
他の会でも「氷結バーンでアクシデント発生」と記録してたな。。。 



9ミリ・25mロープを使ってクローブヒッチでセルフビレイ、、、岩トレ同様の手順。
セルフビレイも数パターンこなしました。
スタカット並びにコンティニュアスでのロープ操作、捌き、取り回し方法、、、
スタカットでの確認点・・・、イタリアンヒッチ(半マスト)でのビレイ
支点の位置関係の違いによるロープの流れに注意すること、
通過位置とビレイ点の位置、、、など実戦で迷わないように基本動作の確認。

アックスビレイの確認点・・・、互いに2ピッチずつ。
ことに雨後の寒気で、シャフトが刺さらない氷結斜面だったので 真剣そのもの。
中斜面であっても 一旦滑り出したら 止まらない? 迫力万点の訓練でした。
25mロープなので滑落した場合には 最大50mは流されることになる。


反省
今日は、 シャフトが雪面に刺さらない硬雪だったので、ピック部での代用としたが
この場合(斜度や雪面の状況でも違うが)、延ばすロープの操り出し量をパートナーと
取り決めて置く必要がある。これって雪上訓練時の反省会でも「確認」されていない。
危険度が増すほどロープの繰り出しを少なくする・・・我々だけでも確認したい。

東北では 稜線縦走でスノーバーなどのアンカーを持って臨むパーティは少ない。
だからこそ現場合わせの確認が必要だ、10mの繰り出し量で「抑える」必要もある 
現場合わせで いちおう我々だけでも取り決めしておく。

ピック部打ち込みでのビレイなら 滑落方向とシャフトの向きなどを考えること。
ポイントはアンカーを打つ際に、シャフトを谷最深部の最大傾斜線に沿って向けビレイ点を作る。
ビレイヤーの位置も 支点に対して滑落方向以外の山側に変わる。ロープで足を払われぬように。

日山協による最新マニュアル・・・スタンディングアックスビレイの場合
まずプラトーの設営、セルフビレイ、ピッケルから出るスリングは最短にし、それを「山足」で踏みつける。
その際   支点と支点(カラビナと肩)は一直線、体軸を折らないということだ。(立木が多く実践はしなかったが…)


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アイゼン
「前爪付き10本爪アイゼン」は正直いって、微妙・・・だということ。
母指球部分にツァッケが無いことが 氷結バーンでは問題かな?と思った。急斜面で真横に立つ際に、実際 滑ってしまった。
氷塊に乗っかった時、アイゼンの「雪ダンゴ防止プレート」が滑る素を作ったようだ。
アックスビレイ点になる足場 プラトーを設ける際、氷塊をブレードで削り取ることがセーフ策かな。
初めから前爪付き12本アイゼン装着で 氷結バーンに臨むべきだということでしょう。

その他
テープスリングは「肩掛け&チェスト」がダブル巻きできる長さのものを携行する。
(私の基本は スワミベルトをしてセルフビレイ、半マストで確保・制動・・・です)
太いブナの木が支点となっても対処できる充分な長さのビレイ用スリングを携行する。
安全環付きカラビナを最低1マイは携行する。アイゼンツァッケは事前に研ぐ。

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稜線まであと150m
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稜線まで100m・・・いよいよ藪突入か?

午前だけ3時間の訓練後に稜線に向かう。GPSは栗子稜線手前の蜜藪に突っ込む際に
あとどれくらい稜線との距離があるのか・・・を教えてくれ重宝しました。
藪の突入方向を定めるのに便利。稜線まで5mと6mとじゃ、5mの方位を選ぶよね。
あと6mという指示計が出た時に、そこでの状況はものすごい蜜藪だったので
こうも感想があっていいのかどうか ?ですが、今日は機械に勇気づけられました(笑)
いいプレゼントを戴き 今日の実戦投入で、初効果確認となりました。ありがとう 後輩たち。

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行きたかったぁぁ・・・栗子稜線から七ツ森を望む 奥に峠田山

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少しばっか 細くなったような??? 努力してるんだ・・・(笑)
今日の検診で 血糖値xxxと書かれた・・・んんんむう。酒を減らすか。。

でもね やっておくべきことを 本日はやれたんで 良かったと思ってます。
心置きなく会津を楽しみましょう! オヤジ マスターズ(笑)

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by tabi-syashin | 2015-04-09 21:03 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(4)

ずぶ濡れだけは・・・

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今週も天気予報が早めの変化を告げていた。

彼岸に降った雪がごっそり残っているだろうと予測し、
和田「つむぎの里さんさん館」さんに車を預け砂川林道をゆけば、
砂川を渡ったところで除雪は終わっていて
前回よりもだいぶ手前からのアプローチとなってしまった。

右手の沢筋には底雪崩の跡も見える。山の雪解け水があふれて
中ノ沢、花の沢ともに林道を横断して流れていた。
花の沢の流れがけっこう強く10mほどの沢幅を走って渡渉する。
砂川は信濃沢合流点の上でも結構な水量があり昼前なのに濁りもあった。

今日は南風が吹いたかと思うと 次の瞬間に 北寄りの風が吹く、
南風は暖かいのにぐるぐる回って吹いてくる北風は 
首筋が冷たく感じたほどだった。こんな風の日は雷が発生する。

日曜午後からの崩れを予想して計画を組んだが、
日曜未明には パラパラっとテントを小雨が叩き始めていた。
ここのところ毎週のように悪天が続く、
今週もそのようで 前線通過で悪天予報が出ていた。

雨で ずぶ濡れ撤退だけは避けたかったので、
土曜日の早々行動計画だったが、
日曜の下山は朝の5時には朝食や片付けを終えて
6時には撤収開始、7時半には下山を完了した。

それにしても
昨日は暑くて仕方ないほどだったが今日は肌寒い、、、
変な天気だ。
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by tabi-syashin | 2014-03-30 17:23 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(0)

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CONTAX TVS , Kodak400
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「お~い みとべぇ、これを独りで帰れるかぁ~???」
・・・ と リッジの上で大声で尋ねると、、、

「む、無理っすよ~」
・・・ との返事、さらに

「リッジを下るのはおっかねぇ~」
・・・ とも言ってきた。

三戸部君の顔はスノーリッジを目前にしてかなり硬直していた。しんがりを嶋津が固めるので 続く二番手は三戸部君だ。彼は必死の形相のようだ。騙されたとでも思っているのか知らんが さぞかし俺を恨んだろう。 う~むぅ・・・ここは思案のしどころだ。 細い雪庇から岩コブへ、さらに吊り尾根上にリッジが連なって 最後は雪壁が構えていて 豪士峠に抜けている。

もともと夏道は右手の急斜面にジグザグに付けられているのだが そっちを登るなら雪崩の危険性を考え 登る時間帯が問題となる。ずっと手前の露岩帯辺りから尾根通しに進んで来ると 必ず此のリッジに至る。計画では彼に此処を独りで帰って貰うことになっており 自分たちは栗子への縦走を継続する計画だった。またしても縦走は叶わずだが、新人の彼を放っておくわけにもいかないので思案のしどころとなったのである。もしも独りで帰るというなら 25mのフィックスロープをセットしておく予定だった。
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仙台から二時間半で「まほろばの里」高畠町につく。上和田の集落への一本道を訪ねると 一昨年同様、各軒先は冬囲いに包まれている。雪は春の彼岸だというのに50cmは優にある。砂川砂防ダム下に車を停めて歩き始めた。林道途中に本宮作業小屋があり中ノ沢登山口と標識がある。奥の尾根がまっすぐ林道に向って落ち込んでいるが それが豪士峠への登山口。立派な標識がたてられている。

花ノ沢の渡渉から始まる。前日の大雨で簡単には渡れそうもないが エイヤッ!と大声をあげて飛び越えた。80リットルのザックを背負ったままだから三歩目は対岸に届かなかった。手始めは地形図の破線との違いがあるところで ここは尾根通しに急登した。c649mの第1ピークまでがかなりきつい。岩肌の出始めた露岩帯の雪庇を通過すると 春とはいえ冬の名残の山へといざなわれる。752mの第2ピークまではヒメコマツ、赤松とブナが混成するルート。途中、雪に覆われた夏道が尾根の右へと緩いルートで逸れていくが、この誘惑に負けそうになるほど我々の行く手にはスカスカと足元の抜ける斜面が待っている。ここは稜線に出るまで辛抱、尾根上を行かねばならぬところだ。やがて 豪士峠の終了点であるc980mのコブを中央とするスノーリッジの吊り尾根となる。

そこで先程の思案のしどころとなったのである。山に逃げられたことはないが 体力や世事のせわしさが山を逃がしている今日このごろ、、、縦走をあきらめるのは残念至極であるが、私の選定した地味な山の地味なルートにつき合ってくれた若い三戸部君を突き放せる状況にはなかったのである・・・明日は駒ヶ岳経由で下山するしかないだろう。

先ずは ピッケル一本でのトラバースを 手本として何食わぬ顔でやってのける。渡りきって余裕のドヤ顔で振り返ったであろう先行者を 彼は憎んだに違いない。コブからたかだか10メートルを数十歩を掛けてジワリジワリ進んで来る。俺が高みの見物するとでも思ったのだろう、睨みつけた形相が段々とコチラに近づいてきた。まあそれでも ようやく辿り着いた。 

終わってしまえば何のことはない 意味なく互いに高笑いするばかり。緊張から解放された三戸部君の大笑いには いっぱしの山男の貫禄が漂っていた。最後の雪壁を抜けると霧氷のビッシリついたブッシュの向こうには 急ぐ我々をはだかるものは何もなかった。
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豪士峠は平らかな神々の祭り場のごとく「唯ただの雪原」で我々を迎えてくれた。ゆったりと豪士山に向って盛り上げていた。旧峠沿いに目を向ければ 茂庭側に向ってこんもりとした尾根が続いている。北には龍ヶ岳への稜線が続き 峠田山にあるスキー場も霞んで見えている。豪士山頂より まん前の七ッ森を眺めたが、宮城の大東岳の山容に似た台形をデンと据えていた。

豪士山の肩にある「白いサンゴ」を見ながら ブナ林の端にツェルトを張った。夕暮れにつれてツェルトの表面をカサカサと音を立てるものが降りて来ていた。その夜は 酒好きが三人も揃ったので 珍しく長い酒盛りに。それでも 疲れた体は正直なもので9時には就寝となる。

朝5時、静かな 少し靄がかった朝を迎えた。 残月が駒ヶ岳の肩に白々としている。広陵とした静かな雪原がかよわな朝陽のピンクにじわーっと染まってゆく。それを瞬きもせずにじっと見ている我々がいる。神々が棲むという数万尺の厳峰に比するものは何もないが 粛々とたたずむ白い平原に対峙する時 まさに実存を感ずる。「時」は己の内に打ち続けていく。ここぞというピンクが展開され それが無色の光に解けるまでカメラを凍らせた。

主稜上の1074m三角点から駒ヶ岳を経由してダイレクトに下山するのが今日の予定だ。882mのコルまで左の雪庇に注意しながら高畠町最高点1074m峰を目指す。コルの雪原から974mまでがきつく寝起きの身体は汗を出し続ける。晴天となった10時近く 突然バラバラバラバラと防寒着に降りかかるものがある。一斉にブナの小枝から霧氷の花が散りだしていた。稜線上が白く煙るほどで しばし異空間に漂った。

豪士山から2時間である。栗子山 七ッ森へのルートを目で追い チョッピリ悔しいが若い相棒に気付かれぬようにした。駒ヶ岳へは主稜から分かれ 20分後に着いた。遥か彼方に月山がぼーっと白く浮き出ていた。下山ルートをしっかり頭に叩き込んで 春山と化した下降路を最下段のc570 へと下った。途中 c700付近で 右へ尾根が分岐するが その尾根を登路に使ったと思われる赤テープが風に靡いていた。

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by tabi-syashin | 2014-02-07 18:24 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(2)

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うすいピンクに染まる1074m峰と、その右 綺麗な山容の駒ヶ岳

福島市飯坂町と山形県高畠町を結ぶ道には二井宿峠と板谷峠とがある。その二つの峠道のほかに間道と称される道がまた二つある。一つは鳩峰峠、その南に豪士峠がある。その峠道を味わうには一つの方法しかない。かなり独善的だが季節の移ろいが冬となり うっすらと山肌が白く染め上げられ できれば「ほど良く雪が降る」といった条件が最も良いと思っている。初冬の峠路が実にいいのだ。

まほろばの里 高畠町。いまだに茅葺の屋根が点在する。そのまた奥の一本道を上和田の集落へと、のどかな冬囲いの風景を眺めながら登山口へと向かう。看板に「人を襲う熊に注意」とある。具体的に「人を襲う」と特定しているところがなんとも面白い。栗子山塊には熊が多々出没すると聞いてはいるが、冬にしか登らないので未だ出合ったことがない。

花ノ沢を渡り、明白な尾根道を辿っている途中で雪が降ってきた。情感を飾るナイスなタイミングである。露岩帯までひとしきりの急登である。丸裸の木々が静粛に斜面を埋めている、それだけが白さの中の色といえば色か。あとはひっそりと季節の色を白に染め上げていた。ジグザグの斜面の上部は白い平原だった。

霧氷でできた白い珊瑚の華がみごとだった。振り返ると峠路の航跡とでもいうのか、雪の中に今自分が辿り来ている足形が型抜きされたように点々と落ち葉の黒さを浮き立たせていた。前方に目を転じれば天界よりの旅を終えたばかりの白い処女地。憧憬に奪われていたら 雪雲のガスの中に入ってしまった。冬の味わいはどうやら此処までらしい。

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by tabi-syashin | 2014-02-07 18:13 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(0)

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旧峠 二ッ小屋隧道から抜け出て、滑谷沢から1202m峰(大杭甲山)への南東尾根にとりつく


● 残雪の廊下から 栗子山

前回、2月に敗退した計画を再度設定しようとチャンスを窺っていた。年度替わり、娘の受験、町内会の雑務やらで とうとう今季は諦めかと思いはじめていた。ちょうどそんな時 会津の森澤さんから手紙をいただき、「こりゃ、是非にやらなきゃいかんなあ」と当初の吾妻山・春スキー計画を延期し 胸につかえているものを、この日の「探索」とした。同行は郡山の嶋津。

朝から天候は下降気味だったが 例によって東栗子トンネル横に車を停め、春の匂いをかぎながら一気に二ツ小屋トンネル(昭和9年完成)まで駆け上がった。そこは既に雪は消え、ブナや木々の新芽が萌えだしたばかり。中島君と真冬の厳しい吹雪から逃げ帰ったことなど笑って思い出させてくれる。

トンネルの入り口右側に石碑があり 万世大路完成記念と刻まれ明治19年とあった。明治天皇が奥州行幸の折にこの峠で籠から降りて休まれた場所という意味の鳳駕駐驛跡(ホウガチュウヒツアト)とも刻まれていた。明治時代はこの峠を歩いて越えたということだが 太平洋と日本海とを結ぶ重要な峠道だったのだろう。上段には山の神が祀られていた。

前回不安の中で通過したトンネルも直径1mほどの穴が天井に開いていて ドードーと水が滝のように流れ落ちていた。「なぁるほど・・・ どうりで氷柱ができるわけだ」。締まった雪の上を歩き 前回の半分程の時間でアプローチ終点となる支稜末端に着いた。案の定 とり付きの東斜面には雪がべた張りである。藪の一番薄そうな斜面に狙いを定めて突っ込んでいく。藪で体が戻されてしまうが何とか踏ん張る。C950 まで結構な急斜面だ。久しぶりの藪漕ぎに足がもたつくし、一歩踏み出すごとに跳ね起きてくる枝に頭は殴られるし、おまけに眼鏡の縁に当たろうものなら鼻の付け根がジーンと疼いてしまう。このパターンを数回繰り返すとc 950 である。

最後の薄い藪を漕ぐとポンと支稜に乗っかった。「廊下だー!」 見事に1202mのテトラ型の無名峰まで一筋の白色で繋がっていた。ザックを置いた。栗子山の1202m テトラピーク(大杭甲山)に未練がましく通い続け 三度目に「栗子逍遥」は校了となりそうである。西風が造った雪庇はそのままの形を保ちながらゴロンと東斜面に倒れており、その廊下と化した平面には幾重にもなった古雪の縞模様が描かれていた。ガスが移動しはじめ頭上いっぱいに晴天を連れて来ていた。亀裂が入って上下に分断された雪を抱え、テトラの峰は黒々とした地面を南面に残したままに 姿を現した。

早く登ってこい!と言われたも同然である。足の痙攣を抑えながら三角形の左斜面から頂点へ進み ピークを得た。頂上は意外とまるい。米沢出張営業の折に13号国道から見上げるテトラピークはいつも尖って見えていたのに・・・。春霞の彼方に飯豊が見える。吾妻の連嶺は目の前に。米沢の街並み、手前にダム湖、真下には1月にアプローチした万世大路。2月に敗退した福島側の万世大路。この峰の左右に分断され道形だけが残っていた。1キロ先の栗子山はどうか、、、何の変哲もなくただゆったりとその起伏を持ちあげていた。

こんなもんなんだろうなあ・・・吾妻と蔵王に挟まれた「名山の修飾詞を知らない山」というのは。今いる1202mテトラピークの方がよほどに自己主張している、対照的になだらかな栗子山にグチにも似た呟きを吐いてしまった。ふたたび厳冬期に来てみたい たとえ1000mであろうとこの無名な山たちがいとおしい 藪山であり道もないのでなおさらだ。透かしてようやく判る踏み跡を栗子山まで辿った。三角点は東側の藪の中にあった。

この夜は頂上台地にテントを張った。ゆったりと夜の帳を迎え、翌朝ウグイスの声に迎えられるまで至福を味わうことが出来た。下山時に西面の下山路を確認したかったがそれは藪で断たれ、あっさり往路を引返すことにした。c 950 で振り返るとテトラはガスに包まれてしまっていた。昨夜の雨で緩んだ雪窪にズボっと足を踏み込んでしまい 雪中に潜む枝に向こう脛を思い切りぶつけてしまった。それでも帰り足は速いもので 東栗子トンネルまで3時間半で済ませることができた。あとは・・・小杭甲山と七ツ森だな。





● 大野九郎兵衛と板谷峠

胸につかえてるものを ここいらで取り除こうと 旧赤穂藩城代家老、大野九郎兵衛の慰霊碑を捜しにJR奥羽本線峠駅に向かった。板谷駅を過ぎると「旧奥州街道石畳道入口」と看板が立っている。杣道に小ぎれいに石が並んでいるところだ。これを過ごしさらに数キロ進むと滑川分岐手前に至る。慰霊碑への案内板が建っている。車を下りて林に入り ちいさな川を渡り カラマツ林の中に進むと 高さが2mほどの石碑がトロッコレールの廃物に守られ?建っている。石には「明和六巳丑七月十六日 佐藤氏」と刻まれている。1769年に建立されたものである。それは米沢方面に面を向けていた。

前述に森澤さんからの手紙の件を記したが 彼の手紙には・・・
一、討ち入りに失敗し吉良殿が米沢に逃げ入ろうとした場合は待ち伏せて討つ 
二、しかし、江戸で目的が達せられたので、生涯をかけた仕事が終わったと考え自害した
と記されていた。慰霊碑横の説明案内板にもほぼ同じことが記されていた。ただ違うのは 観光協会の看板が「大野一味」と記していたこと。悪党でもあるまいに一味という字を宛がったのはいささかお粗末だなと思えた。

童門冬二著「小説 上杉鷹山」下巻(そんぴん編)に拠ると大石内蔵助と大野九郎兵衛が密議し 身内を騙してまで大野を追放した形をとったとあり米沢に潜伏しやすくするためとのことである。南会津山の会 河上さんによれば 江戸の討ち入りから逃れた吉良が必ず通るこの街道、板谷宿手前の李平あたりに樵に身をやつして潜伏していたのだろうとのことだった。

一方 津本 陽著「新・忠臣蔵」に描かれた大野九郎兵衛像は 自分の犯した罪をずうっと背負って生きて来て そのコンプレックスに苛まれ それを晴らすために この地でこの日まで生きてきた・・・ といった風だ。僕もこっちの方がシリアスでかつ戯曲的にみてカッコイイ筋書きだと思っている。

「小説 上杉鷹山」にしろ「新・忠臣蔵」にしろ、やはり小説は小説に過ぎず自分で穿ってみないことには始まらない。これから図書館に通って史資料集めと洒落込まなくちゃならないかも。宮城の岳人・深野稔生さんの言う「山は総体だぁ」、この真の意味はこんなところにあるんだろうね。山という対象物の周りに 自分で興味が持てる題材をどれほど多く用意できるか?が 己の頭の深耕をさらに図ってくれるんじゃないだろうか? たとえば「山と祈り 山と歴史 峠路考 山名考 地名考」など、山を単に登る対象として捉えるだけではなく、さらに面白味という縁取りで飾ってあげよう というわけだ。これこそ遊び方を大きく膨らます大人な考え方だと思う。




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by tabi-syashin | 2014-02-07 12:49 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(0)

 明治時代に掘られた初代の栗子隧道は素掘りトンネルであった。また、前後の道路の勾配も急なうえ屈曲も極めて激しかった。 やがて昭和の時代に入り、東北地方の道路にも自動車が出現するようになると、それまでの道路ではとても間にあわなくなった。 

そこで、昭和8年4月に当時の内務省仙台土木出張所(現在の国土交通省東北地方整備局)により、国の直轄工事として、国道5号万世大路改良工事が着工されたのである。福島~山形の県境の二ツ小屋隧道脇に、二ツ小屋工場(現在の出張所)や宿舎を配置。二ツ小屋隧道と栗子隧道はコンクリートで巻き立てるなどして、明治時代に三島が開削した旧隧道を拡張して整備した。

 このため、米沢側には山肌に今でも二つの坑口が並んでおり、時代の流れを象徴している。さらに、橋梁の幅員も6メートルとして、自動車の通行が可能なようにした。冬期の過酷な作業や資材運搬の困難を乗り越え、昭和十二年三月にようやく二代目の栗子道路が完成した。 この栗子道路の改修により、福島・米沢間は2時間30分で結ばれることになり、貨車による鉄道輸送と比べて、約30分の時間短縮をなし遂げることができたのである。(ネット「米沢と福島を結ぶ万世大路」より)


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1月に入ってなお雪は降り続き なかなかチャンスが訪れなかったが 中島君が同行してくれるというので ようやく「万世大路」を東側(福島側)からアプローチすることができた。ルートは 東栗子トンネル横から始まる。ここの通過には少し不安があった、それはこの旧道に掘られた二ツ小屋トンネルがどういう状態で残っているかという事と その先の二ヶ所の橋が渡れるものなのか ということである。

旧飯坂スキー場をジグザグにシール登行する。昔 ここにはスキーロッジがあり、仲間たちが集まってはリフトケーブルに座席をフックして 自前でリフトを動かしていた。ほとんど朝まで飲み明かしたりしてワイワイとスキーに興じたことがある、義理の兄がスキー教師をしていたので僕も思いっきり新雪で秘密の特訓ができた・・・なんてことを思い出していた。

さてさて いよいよ二ツ小屋トンネルだ(昭和9年完成)。レンガブロックがアーチ状に入口であることを示す立派なものだ。意外なことにここまでブルドーザが通ったキャタピラ跡があった。此処までの積雪は120cmぐらい。入口は向こうの出口が見通せないほど暗いが、何やら闇の中に光る物体があることだけは入口からも見えていた。

今 トンネルに潜ることでようやくその物体がなにものであるかを知り得たが、直前まで、300m先の出口の光を見るまで分からなかった。人気のない暗闇の通過というのは薄気味悪い、なんといっても昼間なのに闇が何もかも蔽っているので じつに不安だ。さらにヘッデンの頼りない光で知れる情報は少なくさらに不安が不安を呼ぶ。

トンネル中央部に青白く光る立体物があった。ヘッデンで照らすとそれは天上から吊り下がった氷柱だったが、ヘッデンのライトが乱反射すると得体の知れない謎の物体のようにも見えた。上をよくよく覗くと トンネルに穴があいていてそこから光が氷柱を通して発光するという怪しげな状況だった。それが明らかになった時には唖然としたが、結構 ショッパイ(笑)。

出口は3mほどの吹きだまりで塞がれていた。僅かな空間から外へ抜けだすと道は左カーブとなり 左からのブロックを予測しながらの通過となる。やがて道は烏川上部に出てコンクリート造りの橋に出た。問題なくこれも通過できた。橋を渡り左岸沿いにさらに進み大きく右折すると 周囲が開け雪原となる。ここから30分ほどで目指す雪稜基部に至るのだが 途中、滑谷川にかかる二つ目の橋は接地部分に穴が開いていて少々不安があった。

それにしても見事な雪稜だった。40度ほどの角度で支稜に吸収されていく、冬季の栗子アプローチに最善なルートである。しかし二ツ目玉低気圧通過で天気が崩れ 山は予報以上に大荒れとなりそうだった。中島君の言うとおりに撤退した方が良かったかも知れなかったが 明日があるので雪の中を先程の雪原に戻ってテントを設営し一夜を過ごすことにした。まだ2時前だったが今日の行動はこれで打ち切りとした。

飯を食ったらやることは何もない。酒はたんまりあるので毎度のごとく低レベルな哲学に興じた。中島君は会員の暁美嬢と婚約したばかりで悩みがたくさんあるらしかったが 酒が進むほどに低レベルな下ネタ話に興じていった。東京では20センチも雪が降ったとラジオがいっている。春の珍事というべきか 春らしいというべきか???

夜は樹木をわたって寄せてくる強風に幾度も悩まされ続けた。寝入ったのはおそらく三時を回っていたのかも。これで今回の山行は終了した。翌日は朝食後、即時撤退! 再び吹き溜まりの壁を越え二ツ小屋トンネルを楽しみながら歩き、東栗子トンネル入口へとゆっくり下山した。

この日、すぐとなりの吾妻連峰で中高年スキーヤーの大量遭難事故が起こった。
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by tabi-syashin | 2014-02-06 23:51 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(0)

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栗子山との鞍部から見た1202m峰 (1995年、白山書房「山の本」に寄稿していた当時の写真)



なんでまた豪士なの? それにまた栗子なの?先日 仲間から聞かれた。蔵王でもない 鳥海でも早池峰でもない ましてや飯豊や朝日でもない。南会津をメインに登って来た自分にとって 簡単に言ってしまえば、栗子山塊というのは休息の山なのである。ただそれだけの理由からだ。

さて どこから入ろうか? なんせ藪山だからどこからでも登ることができる。ゆとりがあれば 12月初旬の頃合いに万世大路を旧飯坂スキー場跡地からゆっくりと登ることもできる。急ぐのであれば 万世町米沢スキー場から最終リフトから行くか もしくは刈安の米沢採石場から万世大路を辿ることもできる。

今回は採石場から行ってみた。12月なので 峠路歩きでも冬山の備えは満足なのだ。山は決まった ルートも決まった。あとは雪次第・・・と思っていたら クリスマスプレゼントにしては少し早い豪勢な雪が降ってしまった。

米沢採石場に車を預けようと事務所を尋ねたら 「明日は日曜日だから 今夜5時にはゲートを閉めちゃうよ」と言われてしまった。大雪で計画が崩れ ゲート閉門でとあいなっては 雪中に身を預けて一夜を過ごそうという目論見は脆くも断たれ崩れ去った。

これではいけないということで 車を米沢スキー場に預けてテクテク国道を歩き、再び採石場からのアプローチに転じた。お陰で採石運搬のダンプから 警笛ならされちゃうし 次々と声が掛けられる。それにいちいち歩みを止めて応対しなければならなかった。後で気づいたが 熊よけに捲いた真赤なタオルがいけなかったのか? 彼らに親近感を与えてしまったようだ(笑)

採石場のいかめしい赤錆びた鉄骨のモダニスクの中を歩くと、西面の細尾根に白い筋を残して屹立する1202mピークのテトラ型三角形が目に飛び込んでくる。今から目指すルートだが はたして届くかどうか。米沢の人たちは これを栗子山と呼ぶ人が多い。杭甲山「くいこうやま」を三島県令が「くりこやま」と誤称したからか?

コンクリート橋(瀧岩上橋)を渡ると重く湿った雪で既に60cmはあった。幸いなことにブルのキャタピラ跡が続いておりとりあえずは楽ができる。本日1番のラッキーだったが 橋の袂の看板には通り抜けができないことが記されていた。 先を思いながら 一本煙草をくゆらせた。

キャタピラの痕跡は上水用の堰まで続いていた。ほんの10分だがそれでも極楽だった。此処から先はワカンで行くしかない。前方50mまでは見渡せ そこから左に折れているらしい。道形には夏草の繁茂する状況が明らかに見てとれた。シシウドの枯れた幹が茫々と道らしき雪面に立っている。

楢の雑木林の細枝からは何本もの山葡萄の蔓が垂れ下がっており、往く手を拒んでいた。明治14年に造られた街道ではあったが 時の流れに押し寄られ、流され、国鉄奥羽本線の開通によって歴史の果てにその生誕さえも忘れ去られようとしている。万世大路のなれの果てだが これも一つの姿なのである。

「これを行くのか・・・」 一人旅には躊躇いがつきものだ。ここでも白い稜線が頭を出している。萎えそうになる重い腰を上げた。道は栗子川から離れ、尾根を巻きながら右手に枝沢の瀬音を聞くようになる。何回目かのカーブを曲がると採石場の全貌が見渡せた。

さらに歩みを進め、葛籠折れをショートカットで登るが なんせ雪が胸まで迫るものだからえらいアルバイトになってしまった。途中 カモシカ ウサギ タヌキ? キツネ? キジなどの足跡が加わる。道を横切ったっり、道筋通りに点々としていたり、これだから冬の峠路は止められない。無目的のようでいて必ず大きなテーマを与えてくれる。

切通しのデブリを避けながら、左手に杉の植林地をみてコンタ750地点から栗子川上部へ回り込むと、西日に照らされたポコポコポコと三つほど盛り上がる栗子山が鈍く光って目に飛び込んできた。重いザックをおろして、俺もう疲れたとばかりに煙草に火をつけ 缶ビールを一気に飲み干した。

路程の三分の二を歩いたことになろうか 突然 背中の方でドサッと音がした。慌てて目を転じると杉枝から雪が落ち その飛沫、チリ雪が顔にかかった。こんなところにも情感が転がっているんだと思うとそんな雰囲気さえにも満足する自分がいた。孤独な独り善がりの感慨に浸っていると 不器用な男の哲学がヌウッと顔を出してきた。暖かい日溜まりの中 何よりも静かな空間がここ栗子峠の古道にあった。








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by tabi-syashin | 2014-02-06 10:28 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(0)

栗子逍遥

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1202m峰・大杭甲山から見た栗子山と その右肩、七ッ森方面1170m峰


南会津山の会「いろりばた」のデジタル化作業も一通り終え それでも冬は暇なので、以前に在籍していた山岳会の会報を整理していた。

それらに目を通しているうちに、どうしても自分の拙文に目がいってしまう。その文章たるや たとえようもない程の「くどさ」「堅さ」で、よくもまあこんな文章を書いていられたもんだなぁ と当時を思い出し苦笑いをしてしまった。

ホームページもブログもない時代、写真で伝える・ビデオで表すということもなく、すべてを文章で表現する・伝えるという時代。ワープロからNECのPC98に変わりつつある時代で、Windowsなどまだまだ出ていない時代の話。


もっとも当時 自分は運営委員だったので常々そういう立場 そういう話し方 そういう書き方になってしまってもいたわけだが・・・、、、だってねぇw 会員から提出される年間150~300ほどの山行計画を束ね 会の方向性を打ち出しながら会の運営をしているわけだから どうしても堅い文章になってしまう。

好き勝手なことをすれば「会が会ではなくなってしまう」わけで、山岳会は同人ではないし、だから その意味でも大らかに理解してもらいたい ということだ(笑)


それゆえ、ある意味 クドイと思われる文章も 当時はなくてはならない要素であり、また 自分はそういう存在だったのだろうと思ってもいる(それでも事故や遭難は起きるものだが )。ついでながら 今回、笑えてしまう拙文を再校してみた。



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特集 「栗子逍遥」 1994


新入会員の野寄君からの受け売りだが、入山口の一つである福島県茂庭地区が治水ダム建設により水没するということを知った。というより全く知らずに今日までいた。

さらに彼が私に差し出し読書を勧めた小説、日本動物文学の草分け的な一冊、戸川幸夫著「高安犬物語」。この中には山形置賜地方の雪山を村田銃一丁で闊歩した猟師源次や吉、猟犬シロやチンの物語が描かれている。豪士山辺りの情景がよくわかる。

さらに 深野稔生氏の寄稿文「岳人」No.423に掲載された「ヤブ山と私」の一節゛名山の修飾詞を知らない山並み″とのかかわり方もお陰さまで学び得た。名山名谷ばかりが山の全てではない。


私自身が栗子山周辺に興味を抱くようになったのは時代小説の中だった。赤穂浪士に関する小説が二編、歴史上の人物、赤穂藩城代家老 大野九郎兵衛をそれぞれに捉えられていた。

この人物もこの地に関わっていたのである。その根因となった南会津山の会の機関紙「いろりばた」の記事も見逃せない要因の一つであると特に記しておきたい。

何の変哲もない奥羽連嶺の狭間、藪山との関わりは冬の味わい方に生まれ故郷への思い入れも加わり、一種の複合性をもって自分の前にあったのである。

来期は七ッ森のスキーコースに出掛けてみようかと密かに思っている。
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by tabi-syashin | 2014-02-05 22:25 | Mount Kuriko | Trackback | Comments(0)