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昨夜、面白い資料が見つかったので・・・付記しておこう。(2015.10.29)

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私の書棚・・・

新潟・峡彩山岳会「岳神 14号」創立40周年記念誌(1993年)の187ページに
会員の本望英紀氏が 大正時代の飯豊山の登拝「十三参り」の様子を現地古老宅にて
聞き取り調査をし書き留めている。

それによると・・・

「十三参りといって 津川から石川ひとし、薄八一郎の二人が参加した。
年齢は二人とも13歳というから大正2年、1913年ごろと思われる。
時期は8月で山都町に集合して参加人数は10人くらいだった。
二日間は祝詞(のりと)の練習や川で水垢離などをとり、
飯豊山に登る前日はとても厳しく 梅干しだけだった。

先達は山都町の人で、服装は頭に白い布を巻き白装束に着替えて
飯豊山中では各所の神社で飯豊山と会津の柳津虚空蔵菩薩様、
この二つの神仏の名称をお祈りして登った。

下山後は「はんばぎぬぎ」で凄いご馳走が出たが、先達は酒を飲んでいた。
以上が薄八一郎氏からの聞き書きである」

・・・とある。

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私からも付記してもおくが、、、「白装束」は 死装束を意味していた。
「はんばぎぬぎ」は 「はんばぎの儀」という式目(修練明けの祝席)があったのだろうと思われる。

なお、藤島玄さんを囲む「玄山会」が会津の闇川で第10回(1983年)が催されたとも記されている。
この会津、闇川の地こそが「本元飯豊山」であり飯豊山詣りの講中で賑わいのあったところでもある。

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喜多方市の観光案内によると・・・ 

福島・山形・新潟三県にまたがる飯豊山は、古くから五穀豊穣や成人儀礼の山として、多くの人々が登拝する信仰の山である。飯豊山登拝は、十五才の少年たちが白装束に身を包み、水垢離をとるなど身を清めて臨む。先達と呼ばれる案内がつく。こうして無事、登拝すると一人前の大人として村から証認される習俗が昭和20年代までみられた。山都町一ノ木は、飯豊山登拝の表山道にあたり、登拝者の宿が多く連なっていた。一ノ木にも里宮としての飯豊山神社がある。飯豊山には一王子社を本社とし、五王子社まで五社があり、これを合わせて五社権現という。一ノ木の飯豊山神社には、五社権現の本地仏である五大虚空蔵菩薩像が保管されており、夏の登拝時期にはこれらを山頂の飯豊山神社に移しまつる・・・とある。

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まるで 同じことが大正時代に遡って実証できている。 素晴らしい検証だ。
やはり その地方に在るべき地方山岳会の姿というのは 「山は登ってなんぼ」だけでは済まないんだな。
歴史や知的探求があってこそ「味のある」山岳会と言えるのだろう。耳が痛い向きもあるか・・・?(笑)

山を信仰の対象として捉えなおし、山に遊ばせて戴く・・・こんな謙虚な姿勢。昔語りの由縁もそこにある。
人間が冒険心などと言えるのも釈尊の掌の上にてこそ 御加護もあるということか、
「実力」だ!などと思いあがらぬ方がいい。



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by tabi-syashin | 2015-10-31 09:16 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(2)

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あれは<青春>と呼ばれる時代の一夜の夢だったのだろうかー。それにしては長くその〈夢〉を引き辷り続けてきたようだ。

かれこれ28年になろうとするこの山との関わりの背後にあるものに思いを巡らせていると、高地岳北壁1ルンゼから自然落石の乾いた音がする。咄嗟に身構えてみたものの、落石はあらぬ方向で炸裂、幽かに硝煙の匂いを残し静寂に還る。

そういえば初めて海谷を訪れた1965年の冬、退散する原因となった大雪崩が発生したのもこの高地岳北壁の1ルンゼだった。それにしてもあの雪崩は凄かった。1ルンゼを突風のように駆け下った泡(ホウ)雪崩は、海川本流を渡り、対岸の仙丈ヶ岳南西壁に突き当たって坂巻き狂騰していた。

振り返ると高地岳北壁が象の顔の相貌を見せて大迫力となってきた。この岩壁にどうしてもカール・マルクスの名を与えたいと主張して譲らなかった徳永憲一は、当時学生運動に熱中し、山にも全学連のヘルメットで現れたのだが、それが卒業と同時にコロッと寝返り、”米帝”の先端企業IBMに入社して私たちを唖然とさせたものだ。

”学生時代のハシカ” ”脳嚙りの身勝手な熱” 様々な批判があり、それも確かに一理はある。それでもなお、確かにある時代に夢に溺れ、社会主義と変革の想いに自己の存立を確認したいと願う心情はあるのだし、残念ながら生きるためにそうした夢を削らずに過し得るほど私たちは強くない。

だがそれでいいのだ。互いに生きていく道筋が違えば、自ずから関りを深める相手も変っていくのが当然。そうして少しづつ青春の蒙み(クラミ)から脱け出し、年老いてゆくのが人の定めというものだろう。

岩を攀り損ねて、墜落することよりも社会的に失墜することの方が恐ろしく、耐え難い。”死ぬ気になれば・・・”と人は言うが、ジワジワと真綿で首を締めつけられ、社会的に葬り去られるのではないかという不安に較べれば、瞬間の死など気楽なものなのだ。
幽かにそれと判別できる程度の焼山の噴煙を眺めながら、そんなことを考えていると、早川谷を渡る風のさざめきに乗って誰かの声がする。
「駄目だよ、まだ・・・・・」 藤平の声だ。
「まだ終わってないだろ」 これは木村の声だ。
木村秀雄、彼は私が約束を破って参加を取り消した駒ヶ岳南西壁の試登中、墜落死した男だ。木村は冬の海谷の岩壁登攀を提起し、私に強く実行を迫ったのだが、その最初の試みで遭難してしまった。

昼闇山(ヒルクラヤマ)、それは、海谷のすべての課題が終わったら一緒に登ろうと、ひと足先に旅発った彼らと約束していた山だった。






大内尚樹 昼闇山(海谷山塊)白山書房より抜粋

注:大内氏は 駒ヶ岳南西壁 冬季単独登攀を成し遂げた。昼闇山に登って、回想したのがこの「約束の山 昼闇山」である。


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by tabi-syashin | 2015-10-20 09:31 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(0)

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お駒のヒシは海谷の雄 「駒ヶ岳」の西、
根知川に面している。

高距四百メートル、ほぼ垂直の岩塔である。
ヒシというのは
この地方にふるくからある方言で、
きりたった岩壁の謂。
そいつはまさに巨人(ガルガンチュワ)。

獅子のような頭をもたげ、
両肩をいからせ、聳然と周囲を睥睨していた。
カタストロフィに飾られて、
巨人はますます尊大に、陰険に、
私の心もしめつけてゆく。

あのきみのわるいフェース。
夢にまで追いかけてきて おびやかし、
恐怖と戦慄のつめあとを ふかくうがった岩壁。



遠藤甲太著 「山と死者たち」 白山書房より抜粋








人は人とのかかわり合いで生きており、いろんな影響を受けながら生きている。山も同じで強く影響を受けながら50年近くかかわってきた。その山への誘いは山岳書物が多いのだが、なかでも登攀モノが中心になり、そのストイック性もあってか 山への理解に一般ハイカーとは歴然の違いがでているように思う。

昔と今の指向性の違い・・・、現在はマテリアルも交通手段も、何といってもパソコンのスイッチを入れれば山岳情報が即座に手に入る、何でも手に入るが、、、その代償として山への深い憧憬や情念、里人との温かな交流など明らかに大切なものを喪った。「軽薄短小」「安近短」の現在に山に目覚めた人と 一方、かつてデジタル情報のない時代、現場に立たなければ知りえなかった山岳情報や交通の未発達の時代に生き、計画からリザルトまで緻密さを求め、食糧から酒に至るまですべてを共同装備と捉え、それこそ生甲斐!と「重厚長大」に山に取り組まざるを得なかった我ら世代との違いは とりもなおさず行動形態に現れる。

つまり、それは「ソロ」という行動形態に代表される。ソロで山に入れる気安さは、反面、奥山に入らぬ、歩かぬことを意味する。それとは逆に 集団で切磋琢磨するということは、やがて、ソロでも奥山に入る実力を養うことに通ずる。 気安く浅く山を歩き続けるか?、苦労してのちに享楽を生むか?の違いでもある。

かつて何度もいってきたが 個人ではできないことをやり遂げる能力を新たに持ち 個人以上の実行力を持つのが山岳会という「組織」。だから、世情を断つ冬山でも 未開のワンダーフォーゲルでも 幽玄な谷でも亘れてしまう。そして これこそが「組織」の存在意義でもある。 



今日紹介する「私の書棚」。この遠藤甲太のおどろおどろした内面世界は私自身の内面に深く影響したものであり、一方 難所を淡々、飄々とこなす大内尚樹教授にも惹かれるものがあり、どちらも同様に大切にしてきた「彼ら」であり「書物」である。

彼らの接点こそこの「海谷」であるが その道にはその道に適うものだけが集まるという難局の道理が在る。この道理を理解するには 山に向かおうとする側の根底的な「内面の差」「積み上げ」が必要であることを先ずは知っておかねばならない。

いずれストイックな「内面の差」は深山幽谷に入り込んできた年月の差に歴然と現れ出るもの。それこそが各自なりの山との関わりであり、「積み上げ」という系譜でもある。さらにまた それこそが沢ヤと岩ヤとハイカーとの「ものの見方の色違い」にもなっている。

冒険の密度、山、岩への理解度、経歴の差、難局体験の違いなどとなって現れ出たとしても いささかも驚くものではない。面白そうな山に飛びつく一般ハイカーと地味ながら流域踏査を執拗につめる地域山岳会々員との差は 時々の局面で 既にも常にも現れ出ているのだから。



ここ海谷は いまでこそ「雨飾山」とロマンチシズム溢れる名称で多くの人を集めるが、、、じつはその隣り、海川に面する凝灰岩の岩壁で人知れず散った男たちの物語があることを それが最近まで続けられていたことを 忘れないでいてほしい。




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by tabi-syashin | 2015-10-19 17:20 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(0)

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063.gif レビュー

ひとたび、激しい行為を通して強い生命の喜びを知りえた者にとって、心はただ自然を愛する自由な旅人ではなくなっている。彼の眼にはやはり山の美しさが映っている。しかしそれは静かに眺められた美しさではない。彼の心には、彼みずからの意欲によって開かれた山の激しい美しさが目覚めている。黝(かぐろ)い岩、鋭い雪稜、きらめく蒼氷、身をきる風の唸り、そして雪崩の咆哮。これらの美が彼の心を引きつけ、彼の魂に息苦しいまでの夢をつくり出す。その時山は、彼自らの生命をもって贏ち取ろうとするプロメテウスの火となるのだ。 
「森の中」 小川登喜男 1934年 山岳雑誌「山」梓書房 


このエッセイは小川が大きな影響を受けた英国の登山家アルバート・F・ママリーの登山論が起源となる。ママリーの原文は慶応の大島亮吉によって和訳され、それに啓発を受けた小川が書きしるした登山論の一遍である。

「人はなぜ山に登るのか」 この永遠の課題をもって登山家小川の思いが始まる。「真に新しいルートへ向かう。誰もまだ到達したことのない地を愛し、大地がカオスの世界から生まれて以来無垢の地、氷の襞におのれだけの径を刻もうとするものである」ママリーからの啓発である。それは穂高で落命した大島の心を酔わせ、彼が和訳したママリー登山論が若い小川たちを谷川初登攀へと駆り立てたのだった。

小川登喜男・彼が仙台近郊の山に足しげく通った東北帝大生時代(1928-1931)、その4年間に東北の山々を登り白銀の峰々を滑走したことが、彼の人間性の礎の一つになっているのは間違いない。その天賦の才に恵まれた彼は小さめな体躯(165cm)ながらも持ち前の柔軟さで谷川 穂高 冬の剣などでその才能を咲かせるのだが、それ以前に泉ヶ岳や大東岳 船形山 黒伏 丸森 霊山 蔵王 八幡平 吾妻 飯豊 八甲田といった東北の豊かな大地・ブナの森・たおやかな峰にて培われたであろう山への想いは天才クライマーとしての技術ばかりか人間としての心の豊かさをもバランスよく埋め込んだ。それが著書に出てくる言葉「Gemut」(心情・情緒)なのだろう。それらがヒュッテンブッフ(蔵王小屋に備えられた自由ノート)や部室に備えられた「ルーム日誌」に多く認められた。落書ノートの「ノリ」そのものである。それに見る男たちの友情は濃くそして思いは熱く、読む者に昔日の良心を見せつける。熱いものが伝わってくる anthology だ。

哲学的とも宗教的とも思想家的とでもいうか帝大生の山に打ち込むストイックな姿に私などは敬服の念を抱くのみだ。それにしても読後に悲壮感めいたものを感じなかったのはなぜだろうか。恐らくこの本の背景に流れる「帝大生」という磊落な気質がその因子なのだろう。それはそれとして、書き手の出自が岩ヤか沢ヤかでこうも違ってくるものだろうか?沢ヤであり山岳スキーヤーでもある深野氏が書けば山への情念と描かれた心情が中心となり 仮に岩ヤの遠藤甲太氏が書けば、滲みだすあの生死の境から生まれる悲壮感で世界をも陰鬱に包んだことだろう。

確かに、クリンカー、トリコニー、ベルニナ、ムガーなどドイツ製の鉄鋲を打ったナーゲルシューズでしかも麻縄のブーリン結びで、プロテクションもおおかた無しで断崖の岩場に挑むわけだから宗教的な文体になるのも必定、理解もするのだが、いずれそのような貧祖な道具の時代での登攀なのである。今を見て知って当時を思えばなんと無茶で恐ろしい意気込み至上の登攀だったであろうか。小川が田名部、枡田とで登攀した谷川岳 幽の沢右俣・右俣リンネ初登攀の回想が読み手をかなりビビらせる。この装備で逆層の岩場をバランスのみでしかもノーピンでクリアしていく彼らに「日本の近代登攀技術を一段上がらせた」・・・と。岩から身体を離しオーバーハングをクリアしていくという近代メソッドがそこにあった・・・と。足しも引きもしない岩壁登攀の実力者である遠藤甲太氏が全てリードにて同ルート実録検証をしその上で語っておられた。余談だが、深野さんと遠藤甲太氏は旧来より親交ある仲だ。それは当時の僕がよく知っている。なので深野さんのルート推考と遠藤甲太氏の実登攀による検証とでこの評伝を書きあげるに互いに補完しあったのだろうと推測する。

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063.gif 読後感 

深野稔生さんの本を読んだのは共著である「ブナの山々」が最初。それが出会いで、それが元で郡山からの転勤後にYMCA山岳会に入った。次の本は「山遊び山語り」、「宮城の山ガイド」だったろうか? 土樋にある深野宅の書斎で戴いた「昨日からの手紙」「神室岳」が最後だったろうか? 彼の文学的?形容文体を少しトレースしてみたくなって・・・、amazonでポチったら かの本は翌々日には届けられてしまった。まだこちらが本を読む覚悟をせぬうちだったのでその分厚い装丁におののき、パッと本棚の何処かに隠してしまいそうだった。ついついページをめくると、意に反して、どんどん惹きこまれてゆくではないか! おそらく自分にも そういう素地、山のDNAが潜んでいるんだろうと思ってもみた。ただ、18歳から山にのめり込んでいた割に自分にはストイック性がまるで無い。あるといえば、「山は総体だ」という哲学のみだ。そんな自分なのだが、この本を読んでいると山への向かい方に教示され、反省もし、山岳愛好家として理想への道標にこれを据えようと思うに至る。

山行には焚火と酒があればよいなどと平気でのたまう自分はとても恥ずかしい。とはいえ文中にある「バドミントンスタイル」という言葉にこそスポーツを楽しむという英国近代登山発祥の姿(British hill weather 1892年より)があり、慶応の大島亮吉が流行らせたらしい言葉がある。そんな下りがあるのでパイプをくゆらす、スコッチを嗜むというのは登山に於ける紳士道として許される覚えなのだろう。さらに雨が降ろうものなら止むまでマントを被って山野に宿り、霧が出れば晴れるまでパイプを咥えて幻想の世界に身を沈め移ろいをやり過ごす、という気候をも含めて自然を楽しむ彼らに欧州における古来伝統のスポーツの香りが利ける。元来、スポーツという言葉には”楽しむ”といういを含んでいる。それが英国バドミントン村での貴族紳士の生活スタイルなのだとファッションも交えて大島らは慶応の部内報にて披露し実にやがて社会人全般にも流行するようになったとある。今も昔も学生こそ時流の先端にいたわけで、この下りにあるファッションにさえも日本近代登山の黎明をビシバシ感じてしまう。

「岳人」とは、「アルピニズム」とは、いったい何ぞや?「岳人」と称するには如何ほどの時間を山と渓谷に費やさねばならぬのか?厳しく危険な山を追求する一方で憩いを大事にし、緊張を持続させる行動はやがて肉体ばかりか心のくつろぎを要求するもの。緊張の登攀を終え、ひと休みするアルピニストには瞑想的な精神があらわれる・・・イギリスではこれを「The spirit of the hills」“山岳の精霊”と呼んで尊んだとある。その「岳人」に宿る精霊とやらを得るにはどのような心境に自らを浸らせるのか?この下りを理解せずに「岳人」は成り立たない。この辺を現代の万民登山とで比較してみたいと思う。自らを「岳人」と呼び悦に入るなどは身の程を知らぬ滑稽な行為と先人たちに笑われそうである。そこのところは一度学生時代に戻って、いわゆる「登山とは何ぞや?」に思惟を巡らさねばならんのだろう。

さらにもう二、三度、当著を読みこんでみようと思う。「岳人」であるなら一冊は持つべき本であり 山岳愛好家であればけして損はしない一冊である* 草稿なので 今後書き換えることがあります。

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063.gif 登山家 小川 登喜男(おがわ ときお、1908年 - 1949年) 
東京浅草の生まれ、旧制東京高等学校在学中出より登山を始め、東北帝国大学山岳部(1928-1931)では草創期のスキー登山によって、蔵王、船形山、吾妻連峰、八幡平など東北各地の山で活躍。登山のために入学し直した東京帝国大学山岳部(1931-1934)では、谷川岳一ノ倉沢や幽ノ沢、穂高岳屏風岩、剣岳雪稜などを初登攀した。

「行為なくして山はない、情熱なくしては、いかなる偉大なことも起こりえない、山への情熱は、山に行くことのうちに純化されるだろう」(東北帝国大学山岳部ルーム日誌より)

肺結核で若死にし、長くその登山の偉業が知られることがなかったが、東北帝国大学時代に残した日記に小川直筆のメモを見たという。部室や蔵王小屋に集う岳友たちとの交情、山行報告、思索と随想、帝大生たちの青春、登山がロマンであった時代の伝記である。昭和の天才登山家と評される小川登喜男の実像に迫った力作評伝。

「銀嶺に向かって歌え クライマー 小川登喜男伝」 深野稔生著 みすず書房発行 定価 2800円

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でも こんな読み方もあるので 紹介しておく
いちおう「評伝」だから史実もののジャンルなのだろうけれど  脚色もあるとして事実との符号に苦慮する点も多々あるらしい 
それを小説だと指摘する方もいるので そこの所にまだまだこの本の問題があるようで その一方の意見主のURLも表記しておく。
* http://kletterer.exblog.jp/20207595
それらを指摘をする彼は自身のブログに「クライミングという行為が、無機的な岩塊の上で繰り返される筋細胞の伸縮でしかなく、幾つかの数字だけがその結果を表現するものであるとしたなら、なんと虚しいことだろう。」と書いているので その一文で真摯に岩に取り組む方だということが傍目の私にも直ぐにわかる。ご訪問してみて下さい。

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by tabi-syashin | 2014-11-22 22:34 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(0)

SNSは自動ドア。 

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PENTAX K5 、 FA85mm SOFT

石黒謙吾著 「七つの動詞で自分を動かす」 (実業之日本社)、、、 面白い本だ。
簡単に読めちゃってエキスの粒が何個か脳裏にすうっと収まるような本。「第3章 開く」に「SNSは自動ドア」って項目があって読んでいくと 普段 誰もが気づいてる問題を著者が分かりやすく書いていたりして とても共感できる内容だった。



西部劇の酒場のシーン、、、荒くれたガンマンがやってきて 両開きのドアを バーンッ! て開けるシーン、酔客は一斉にドアに立つ荒くれガンマンを見る・・・ それって 勢いよく開けて入ることでガンマンの存在を示しているわけだけど、最近の若者世代・・・SNSの世界になってくると、まずドアがない。。。 開ける、挨拶する、自己紹介する、そういう意思表示(礼儀)がなくとも誰とでも繋がることができちゃう。 自分の名を名乗ることも どういう経験を持っているかや 人物背景や 境遇・環境・・・などを告知せずに(もっとも相手もそうなんだけど)、互いの氏素性も知らないままに軽く簡単に繋がることができる。 とまぁ、一概するが 「そこに落とし穴もあるよ」って著者は「SNSのアバター性」を指摘し説いてるんだね。

自分でドアノブを回して入らないと 相手は自分を気にもしないし 存在さえも気付かない。ゆくゆく心を開くこともできない。 つまり自分の心を開かないと相手の心も開かれない。「忍びツール」で足跡を追跡しても相手には繋がらない、猜疑心が煽られるだけだ。 SNSで自分の心を開かずに繋がる相手を求めても、求めた相手が心を開いてくれるとは(人間の付き合い方から見ても)考えにくい。 

ちょいと前、SNSといえばミクシィだったけど 今はツイッターやフェイスブックなどが全盛だ。それに富に最近は「ライン」だそうで?よくぞこうも”人は人と繋がっていたいと思うもんだなぁ”と思うし、繋がっていないと不安だという心理なんだろうなぁとも思う。 他の誰もがやってるから自分もやる という「右ならえ」志向。「個性よりも人並み」が安心 という「平均化」志向 まあ、それならそれで叩かれる心配もないのだろうけど 逆に それでいいの? と僕なんぞは思う。

繋がれば繋がるほど何でもできちゃう というメリットにばかり興味が注がれる時代。 そんな文明の利器なんだけど その文明の利器によって 人間たちが古来から培ってきた「日本人社会の文化度」(慣わしとか礼節とか敬意とか・・・)が 危機に陥ってしまう、なんとも皮肉な、表もあれば裏もあるような話。SNSで繋がってさえいれば その人と心を開きあった状態だと錯覚してしまうことが もはや「危ない」と著者はいってる。まさに昨年、イッズミーブログで書き上げたことそのものだ。既に僕らは 9年前から5年間もこれに似た問題を「イッズミー」で経験し、その「心の病み」と向き合ってきた。

さらに著者は指摘する・・・。 ネットに障壁はないから「熱意の無い人(いや、あるように思えちゃう人)」とでもコミュニケートできちゃう つまり繋がったと思っちゃう。 それを「第5章 結ぶ」の項で、 ネットで絆とか 繋がろうとか がんばろうなどを呼びかけているけど それってじつは 呼びかけてる人が実際に能動者として現地でギュッと被災者と手をガッツリ結びあっているか? というと、 どうも”そうじゃないぞ、 違うかもよ” という「結ぶことと繋がることの違い」という話になって なかなか面白い指摘と展開だと思った。

SNSは「薄いカーテンを開けて待ち、引いて誰かがそっと入ってくるかどうかを窺っている状態」と著者は捉えていて、それは「ガラスを隔てた関係」なのだが SNS依存症患者は「繋がってると錯覚しちゃっている」と その勘違いを指摘する。それは根源的な人間力の低下という問題にぶつかる とも書いてある。問題提起が「イッズミー2ちゃんねる騒動」と似ていて さらに著者はSNSの活用者としてのアプローチなので「SNS依存症」という病を内面から指摘しており 内容はさらに現実的に強まり表現されていた。

この本を読むと 「SNSは自動ドア。」の意味がわかってくる。著書のタイトル「7つの動詞で自分を動かす」が明確に分かってくる。つまり「気づき」より「気づく」、「行動」より「動く」。 名詞より動詞で捉えること、その刷りこみで 「依存症」傾向を変えていこう という提案だった。となれば 「ドアは自動的に開くものではなく自分で開けるもの」という動詞的表現になるはずだ。暇さえあればSNSを開いている若者たち、一日6時間も繋がっている、繋がっていないと不安だという「病的な人」もいる。この本でそんな自分の悩みを変えてみてはどうだろうか? 何度も見開いて起こる現実に対処し、ネットに悩める人に紹介するには便利な本だ。
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by tabi-syashin | 2013-02-28 20:20 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(0)

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光さす食堂(吾妻小舎) Monochrome 15


 TVの宣伝に煽られつられ映画館へ、封切となったばかりの山田洋次監督「東京家族」をみてきた。それでその 映画のお尻部分から今日のブログが始まるので 誠に申訳ない。


 込み上げてくる感情で泣き面になったのを見られるのはイヤなので、館内に明かりが灯るようになっても席を立てないでいた。そんな時、終映の字幕、エンドロールが流れるスクリーンに「この映画を小津安二郎監督に捧げる」めいた文字がチラリと映された。「東京家族」の出生をこの時に知った。前知識もなく山田監督作品というだけでシルバー料金の映画館に入ったのでこの映画が生まれた背景なんてわからなかった。じつは上映途中から妙な感じがしていて、演じるタッチが何かに似てるなぁ?と疑問符を周吉役の橋爪功さんに抱いていた。この映画を見終えるまでずっと、それが何かを思い出せないでいた。

 で、この字幕でやっと、あぁ!あれは笠智衆さんの動きだったのか、と遅まきながらモヤモヤがとれた。主演で父親役の橋爪功さんは 原本「東京物語」の笠智衆さんをイメージして演じていた。いやいや、俳優さんをモノマネの如くに例えるのはとても失礼なことだ。が、72歳という人物設定には過度な半ば硬直した仕草(失礼!)や、首をほんの少し回し顔を手向ける姿や 台詞をぶっきら棒に云うあたりは それが誰かの演技そっくりだと私に思わせていた。字幕「小津安二郎監督に捧ぐ・・・」の段になってやっと 誰かの誰が、じつは笠智衆さんだと確信したわけ。


 小津安二郎監督の映画「東京物語」では(他の作品でもそうだが)何でもない淡々とした日常の中に当世風な世情をあらわした人物を登場させる。例えば、東京に暮らす長男も長女でさえも尾道の重篤の母を見舞うのに喪服を用意し東京を発つ、こんな風に60年前の都会人の当世風、合理的な割り切り感をドライに演じさせている。また70年前の太平洋戦争や 2年前の東日本大震災、その時代、その時代の象徴的な大事件にあって、「まとまっているように見えても崩れやすいし、いつかは離別するもの それが家族」というメッセージを観るものにも残してゆく。

それを如何にとらえるかは受け手側の問題でもあるのだが それは当映画で周吉夫婦の東京旅行での妻の急死にまで急転させ、人間、家族、命の脆さの一つとして映しだす。山田監督の作風の違いとでもいうのだろうか、小津映画のもつ淡々さに山田映画の温かみという一味をふわりと加えたことに表れる。

それは旧いFIAT500を登場させその旧さに愛着を持つ次男の「ほんのり」感をキャスティングさせたり、母が無くなる前夜、初見の紀子(次男の恋人)と一晩で意気投合させるあたりに「未来」とか「明るさ」といった期待感を一条の光として差し込ませたりもする。さらに島の隣家に住む少女役の投入により島に残る孤老周吉の明日が朧気ながらも「生活の再生」として映し出される。 

大きな違いといえば 戦争未亡人という過去を背負う小津映画の紀子(原 節子)と 二男との明るい未来を描く現代版山田映画の紀子との対比、独居老人を温かく包む島の人たちの登場など、小津映画と山田映画との違いは随所に散見できる。もっとも 東京物語では戦死した次男が 東京家族では生きてることになっていたり、原節子の未亡人役が井 優になっていたり・・・と筋書きは変えられている。

 昭和28年に戦後の混乱を経て作られた映画と平成24年に東日本大震災を経て作られた現代の映画と、総じて 山田監督が明確に加えたのは震災後の「希望ある未来」のようにも思える。二つの映画を通して 未来を見つめる先がどれだけの明るさを持って見えているのか、その違いがわかってくる。 と同時に それが映画の「時代性」なんだということに受け手も気づかされ 山田作品に理解に深みが備わってくる。

70年という時を越え「東京家族」に加味されたのは「希望ある未来性」。孤独となっても東京の息子たちに頼らずに瀬戸内の慣れ親しんだ土地で生き続けるという周吉の姿に、震災での被災者の姿を重ねてしまう。つくづく映画というものは時代性を担わされてるものだなぁと思った。

 映画作りの手法という目で見るなら、瀬戸内の周吉宅に帰ったことを強く印象に残すシーン、壊れかけの玄関灯を映し、蛾がパサパサパサパサと蜘蛛の巣や埃の被った電球のガラスを叩く羽音を執拗に5秒ほど協調するところなど 最近では珍しい手法だ。そのことで観る者に華やかな東京から一挙に瀬戸内の小島に場面を急転させてしまうシーンだ。それは昔の映画作りに似ており、椿や桜の花が散り落ちるシーンで不吉を暗示させる手法と同じで、旧さをワザワザ狙った意図を感じる。
 
 この映画を見て原作本に遡ってゆく思考もありかもしれない。山田洋次監督の現代版東京物語「東京家族」、ぜひ映画館に出向き あなたの乾いた心を自身の涙で潤してみてはどうだろうか。あれから2年などと軽々には言えぬが 是非とも震災時の想いをこの映画に繋げ 観てもらいたいと思う(完)
 
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by tabi-syashin | 2013-01-21 15:11 | 書棚紹介 | Trackback | Comments(0)