2015年 10月 19日
心象の山「海谷」 山と死者たち
人は人とのかかわり合いで生きており、いろんな影響を受けながら生きている。山も同じで強く影響を受けながら50年近くかかわってきた。その山への誘いは山岳書物が多いのだが、なかでも登攀モノが中心になり、そのストイック性もあってか 山への理解に一般ハイカーとは歴然の違いがでているように思う。
昔と今の指向性の違い・・・、現在はマテリアルも交通手段も、何といってもパソコンのスイッチを入れれば山岳情報が即座に手に入る、何でも手に入るが、、、その代償として山への深い憧憬や情念、里人との温かな交流など明らかに大切なものを喪った。「軽薄短小」「安近短」の現在に山に目覚めた人と 一方、かつてデジタル情報のない時代、現場に立たなければ知りえなかった山岳情報や交通の未発達の時代に生き、計画からリザルトまで緻密さを求め、食糧から酒に至るまですべてを共同装備と捉え、それこそ生甲斐!と「重厚長大」に山に取り組まざるを得なかった我ら世代との違いは とりもなおさず行動形態に現れる。
つまり、それは「ソロ」という行動形態に代表される。ソロで山に入れる気安さは、反面、奥山に入らぬ、歩かぬことを意味する。それとは逆に 集団で切磋琢磨するということは、やがて、ソロでも奥山に入る実力を養うことに通ずる。 気安く浅く山を歩き続けるか?、苦労してのちに享楽を生むか?の違いでもある。
かつて何度もいってきたが 個人ではできないことをやり遂げる能力を新たに持ち 個人以上の実行力を持つのが山岳会という「組織」。だから、世情を断つ冬山でも 未開のワンダーフォーゲルでも 幽玄な谷でも亘れてしまう。そして これこそが「組織」の存在意義でもある。