バイプレイヤー (飯豊の道標)

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今回の飯豊山中に出遭った道標を集めてみた。繁華街通りというかメインストリートというか・・・そこは立派で金もかかっているが、メインを外れてしまうと・・・途端に 朽ちかけていたり 藪に埋もれていたり ペンキが取れかかっていたり 様々だった。この山はメンテナンスが為されていて 余るほどの順路掲示がされており 十分すぎるほどだった。

で、こちらの各種道標ですが 皆さんはどのように捉えておられるのでしょう? 道しるべがあれば 迷うことなく目的地へ向かうことができますから 皆さんも少しは頼りになさっておられることでしょう。じゃあ、ここが未開地なら・・・どうされるでしょ? 里山でさえ、、、「役場に文句を言う」という方がいました。古い道標は撤去して新しいのに代えろ!だそうです。道標を予算化できないところは・・・、例えば山岳会とか有志の方が 自分たちで作って立てているようですが?

沢ヤは もともと道標なんてないところを進むので ほんの時々、帰り道に夏道を利用しますが それ以外ほとんど無関係です。自分の人生に勝手に道標を立てられて そのコース取りで歩め! と言われて それでも良いとでも考えるんでしょうか? 

沢ヤあがりが「言いたい放題」語ってますが 自分で右に行くか 左に行くか 考えて行動してよ と 沢ヤならいうんでしょうね~。

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大日杉小屋で同宿となり 翌朝から一日ずうっと一緒に歩いたKYBさん。三年前に亡くされた奥さんの遺影を胸に 写真に語りかけながら歩いておられた。なかなかどうして そうそうできることではない、3年ですから・・・ね。奥さんを亡くされて それに代わる、新たな生き甲斐を強く求めておられることが お話の中で理解できました。


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そもそも道標ってなんでしょうね? 一里塚のように指標の具象化ではあるんでしょうが・・・、具象化できない道しるべもあるんでしょう?、心の中に。。。その「導かれたい」という人々の概念的な思いが 「道標」として具現化されているんじゃないか? って僕は思うんです。

沢を歩いていると、道しるべこそないのですが 危険な方向に挑んで右へ進むタイプと危険なものを察知して回避するように左へ進むタイプの両極の人間がいる というのが私の20数年の観察眼です。左に行く人間は 時々 右へ進む人間に「我が意志を包含され」引き摺られることもあって それが事故、事故死へつながるケースが多いようにも感じます。

安全を求め導かれたいという思いが・・・死につながることもあるわけで、「人生の道標」ほど自己とのかかわり合いを強くもつ性格(因果)のものは他にないですね。
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この道標は剣ヶ峰の下部にドンと立ってましたね。カッコ良かったです。。。
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地藏小屋跡への分岐。ここは 看板だけ?・・・で、いいんでしょうかね? 雪崩で倒されるような場所ではないけど 熊にかじられちゃう場所ではありまする。
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御前山の標識。
木ヘンに豊という字をあてて・・・?何と読むのでしょう? 
示すヘンに豊なら「れい」「らい」と読むんですが、、、「れいのいけ」?「らいのいけ」?

どなたか 教えてください。、と書いたら・・・さっそく トラさんから返事が書き込まれました。以下の通り。

「オ豊」は「おとよ」つまりカタカナのオと豊で、おとよという女性の名前なのだそうです。
私もひとつの漢字との思い込みがあり、おとよとは想像もしていませんでした。
願わくばオをもっと大きく書いてもらいたかった。柔軟な思考が出来なくなりつつあるオッサンのお願いです(笑)

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わざわざ 小国のイノクニさんにお尋ねくだすってありがとうございました・・・おかげさんで解決! トラさん ありがとう! 

深田久弥一家が藤島玄の案内で登った、19番目に紹介された東北の名峰「飯豊山」の項、これを紐解けば・・・

「私たちはまず北側から朳差岳に登り・・・帰りは牛ヶ岩尾根を辿って五枚沢に下りた。その初めと終わりには雲母(キラ)温泉と熱塩(アツシオ)温泉という結構な宿りがついた。私たち夫婦に二人の息子、玄さんとそのお嬢さん、それにポーター役の若者が二人ついて、賑やかな一隊でのし歩いた。殆ど雨に会わず、時々雲や霧が趣を添える晴天続きで、まことに楽しい山旅であった。」とある。

この楽しい山旅に参加した中に、藤島玄の娘 豊子がいた。地蔵山の最も東側にある池に 久弥が授けた名は「お豊の池」・・・とまあ、こういう所以、ワケだったのである。

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牛ヶ岩山。気持ちのいい場所でした。時間があれば ラーメンこさえて時間の限り ノンビリしたいところでした。

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五段山のY字路



有名山に登って、記念樹のような「記憶の標識」を立てることが最近多くなった。

誰しも、流れる時間を先の先まで読み取れる人はいない。人生の先の方、未来を見通す力は誰しもないものだ。じゃあ、過去ならどうかというと、それなら簡単に振り返ることができる。なので老後には「記憶の標識」めいたものが欲しくなる。分かりやすく区切ったその標識一本ごとに未完の人生を完成へと近づけるわけだ。

振り返れば・・・人生の節目をそのつど祝ったり味わったりしてこなかった、ただただ走るだけの人生、、、それに愛想を尽かした団塊世代が 己の「記憶の標識」の少なさに気づき 「余生を有効に過ごしたい」と一様に焦るのには そういう事情があるのかもしれない。

だからといって・・・いきなり深田久弥の百名山や海外の山でなくともいいだろうに、と東北の藪山ばかり歩いてきた私などは思うのだが 百名山志向の方に云わせれば、それはやはり名山であればあるほど記憶の襞に刻まれるものは深いもの? らしい。まして友達の少なくなる末期を考えれば なお淋しい。ならば、名山も海外へも同好の仲間とでかけよう みんなで渡れば怖くない 団塊の初老たちはこのように考えるらしい。
  
若い時分は今日この日の記憶など 翌日の記憶があっさり塗り替えるものと思っていたのだが、「時間はまだある、次回にやろう」と高をくくっていると・・・いつしか途端に還暦だ。一日一日が大切になり もう一度登ってみたいと焦がれる山への想いは 喉を乾かす熱砂のようにもなり、人生の終わり加減にひと花咲かせたいと思うようにもなるのである。

団塊の男たちは大抵そのような「できなかった やり残した 残念」などを心に宿しているものである。分かっているのは 若い日の記憶や、「あんときの体力」との戦いになるだろうということ。それはガッカリもさせられるが、還暦の身にとって今を知るのは重要であり、大袈裟にいえば過去と今との真剣勝負のようなもの。終焉の渕に誘いだされた人間の「ひと花」を如何に美しく咲かせるか 自己体力との競い合いみたいなものだ・・・(笑)


















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Commented by torasan-819 at 2015-10-11 10:39
この看板は木へんに豊ではないのです。五段山から登ると他にも看板があり、そちらの方がもっとハッキリしているのですが、明らかに「オ豊」と書かれています。オへんなんですね。そんな漢字はないので読めないのですが、地元では何と呼んでいるのか気になります。
Commented by torasan-819 at 2015-10-11 17:54
判明しました。直接小国山岳会の重鎮I氏に尋ねたところ、「オ豊」は「おとよ」つまりカタカナのオと豊で、おとよという女性の名前なのだそうです。私もひとつの漢字との思い込みがあり、おとよとは想像もしていませんでした。願わくばオをもっと大きく書いてもらいたかった。柔軟な思考が出来なくなりつつあるオッサンのお願いです(笑)
詳しくはこちらです → http://www.ic-net.or.jp/home/iide/timei01.html
Commented by tabi-syashin at 2015-10-12 19:10
なるほど!おとよさんでしたか・・・。トラさん たいへんに参考になりました。感謝します。

藤島玄太郎さんの本を読まねばならんということですね。深田百名山:飯豊にも目を通してみます。 喜多方エーデルワイスんの小荒井さんはアチコチで活動されていましたですね。。。不勉強の至りにて 飯豊はまさしく「遥かな山」です。
by tabi-syashin | 2015-10-08 17:29 | Mount Iide | Trackback | Comments(3)