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私の書棚:「いろりばた」66号

かつて南会津山の会が発行した、会報「いろりばた」の紀行文を 「デジタル化して遺そう」という私的な試み。この冬できるだけタイピングしたいと思う。だが、作者独特のおくり仮名遣いや旧漢字遣いが意外に伏兵だったりして とことん自分の常識が覆され 失笑してばかりでなかなか進まず(笑)

今66号では中西さんが問題提起されておられたが、、、山の本などに紹介した山が有名になってしまって、地元や山の雰囲気が損なわれたのではないか?と紹介者側の心の裏が紹介された。本に公開することが果たしていいのかどうか?(現在ではネット公開の是非問題になるけど)、という究極的問題は30年前に既に存在していたということかな。それとは無関係だけど、取り上げたのは中西さんの「山ノ神峠」と川崎さんの「日隠山と大倉山」の2編。ただし日隠山のみコピーした、申し訳ない。3編目は佐竹成夫さんの「高森山」を選んでコピーした。

版権や著作権などの権益問題がからむようなので「抜粋」の形をとった。後に目次と表題だけのインデックスを加えた。では何分宜しくお願いします。

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表紙写真「古町六地蔵」 小滝清次郎 撮影
( * 今までの表紙の中で もっとも自分好みな構図の表紙写真に出会うことができた)
南会津山の会「いろりばた」第66号 昭和60年8月発行

● ―会津の峠を歩く―  山ノ神峠   中西 章

猪苗代町の木地小屋から秋元湖畔の市沢(いっつぁわ)に越える峠である。

早春の一日(昭和55年3月23日) 私は山友の江花俊和氏、笹川慶子さんとこの峠に立った。ここを基点に東と西のピークの焼山と鞘ノ木山に登るためである。峠からの深い針葉樹の森に包まれた山、吾妻の姿に期待したのであるが、それは石版色の雪雲にはばまれかなえられなかった。すぐそこまで春は来てるのに、峠はまだうず高い雪壁を築き行く手を拒む。それはひと冬吹き荒れた風の威力をあらためて教えてくれていた。

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目次
表紙の写真「古町 六地蔵」・・・小滝清次郎
写真「七ヶ岳・上岳」・・・小滝清次郎・・・1
写真「長野合掌地蔵」・・・小滝清次郎・・・1
写真 -会津の峠を歩く-「山の神峠」・・・中西 章・・・2
写真 -会津の峠を歩く-「内越峠」・・・中西 章・・・3

写真「那須赤崩山」 ・・・小滝清次郎・・・10
写真「雪の下のサンショウウオ」 ・・・江花俊和・・・14
写真「南郷村大新田の六地蔵」 ・・・江花俊和・・・19
写真「池ノ岳からの平ヶ岳」 ・・・江花俊和・・・26
昭和五十九年春 西会津野沢総会報告 ・・・岡田昭夫・・・4

昭和五十九年 新野地温泉総会報告 ・・・笹川寿夫・・・44
遠い山・昔の山 ・・・田村豐幸・・・8
消えた温泉宿 土湯沢 ・・・中西 章・・・11
古桧峠 ・・・祖父川精治・・・13
高森山 ・・・佐竹成夫・・・15

高畠駒ケ岳 ・・・笠原藤七・・・18
枯木山 ・・・山田哲郎・・・20
初冬の田代・帝釈山 ・・・河上鐐治・・・25
金石ヶ鳥屋山 ・・・森 亮二・・・27
幻の滝ノ沢山 ・・・滝沢芳章・・・29

久しぶりに充実した登山 鎧岳 ・・・笠原藤七・・・31
五頭山塊の松平山 ・・・望月達夫・・・34
日隠山と大倉山 ・・・川崎精治・・・37
「南会津山の会三十周年記念誌発刊」(案) ・・・42
新入会員紹介 ・・・44

会計報告、会費納入について、他 ・・・45
いろりばた残部数、編集後記、ほか ・・・46


● 日隠山と大倉山  川崎精雄
中西章君の主催するスリーワイズクラブの阿武隈への山行に参加、二月九日(土)正午過ぎ上野発平行きに乗る。四時半ごろ着。郡山から岡田昭雄君 笹川慶子さんがマイクロバスで到着。五時四十五分ごろ発車、折木鉱泉に向かう。雨は依然としてかなり降っている。

明ければ昨夜の雨が嘘のような快晴。目の前の五社山をすてて海岸に近い街道を北上。二月と思えない暖かさで懐炉は不要だ。五万分地図「浪江」に入り、郡山へ通じる都路街道に出た所でストップ。下谷地という所の採土場の事務所で聞くと、老人が外へ出て採土場の上へ登れと教えてくれた。小さな山半ペタを削り取られた格好はどこで見ても憐れだ。そのへりの、まだ残っている樹木の部分を登る。いきなり私の大嫌いな藪こぎである。

尾根の上には、境界線と防止線を兼ねると思われる土盛り柵が続いていた。土盛り柵が四キロ以上先の日隠山頂上まで続いていたので有難かった。途中で見通しの効かない尾根が急に曲がって首を傾げた時も、結局はこれを辿ることで救われた。木の藪竹の藪に悩まされたときでも積雪の地帯でも同じだった。

二時に日隠山頂上着。六〇一メートル。常緑樹と落葉樹が建ち混じり、藪と積雪が、この山は人があまり来ない、と語っているようで嬉しかった。壊れかかった測量櫓の傍らで、各自晩い昼食をとる。宿の弁当は握り飯二個だったが、一個で腹一杯になった。雪があるのでやはり冷えてきた。

三十分ほどの休憩で、北側の落葉樹の斜面をまっ直ぐ下る。雪山の下りらしい気分もわずか二百メートルで終わり、谷間の道に飛び出した。ともかく満足、ぶらぶら歩いていくと、バスが迎えに出てくれていた。都路街道に出たところに山神の石塔があり、競ってカメラを向けた。今夜の泊まりは浪江の「勤労者いこいの村」という宿舎だった。こうした名の宿舎にありがちの固さはなく、料理も満点だった。

昨夜雨が少し降ったが、今朝はやんだ。仙台から佐竹成夫君が合流し、一向十八名。宿舎の支配人が「相馬焼の窯元を案内したうえ、大倉山登り口まで案内しよう」と先に立って車を走らせてくれた。(後略)

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●高森山・・・ 佐竹成夫
春まだ浅い四月の日曜日。山々のヤブを覆い尽くす残雪を踏み締めて、磐梯山の北東、秋元湖の東に横たわる高森山(1248.9m)に登った。これは東京の中西さんや猪苗代の江花さん、本田さん達が前から進めていた、一連の「磐梯山を巡る山々」の一つとして登ることになったものである。

緩い鞍部上の所を梵天川へと乗越す地点に来た時、正面に高森山の肩の部分から下の方だけが、雲の中から浮かび出しているのが見えだす。高森山との初めての対面であるが、予想以上に稜線は急峻で立派ないで立ちである。頂上が覆い隠されている為にことさら立派に感じられるのかも知れない。 

梵天川の右岸への徒渉も、幸い水に浸ることもなくうまい具合に石を伝ってすんなりといく。そして雪が消えてしまってからでは、密生するヤブに覆い尽くされてしまうであろう頂上から北東に延びる稜線への登りも、その頂上から北東に延びる稜線への登りも、その小さな鞍部に突き上げている小沢がすっかり雪に埋もれている為に、ほとんど苦労することもなく登ることが出来た。会津の山々に限らず、東北の春山のいいところである。ひと登りで落葉松の植林された稜線上の1109P直下の鞍部へと出た。

鞍部に立つと、秋元湖の方面から吹いてくる西風が強まったが、汗をかいた身体にわずかに感じられる程度で歩き出してしまえば却って心地良い位である。稜線上にはまだまだたっぷりと雪が残り、ヤブはほんのわずかに見られるだけで、その稜線上を忠実に辿り、小さな瘤を一つ越して南東へ少し行くと高森山頂上へ続く急な登りの直下に達する。この付近には、所々に立派なブナの大木が伐採から免れて残っていてうれしくなる。適当な柔らかさで持った柔らかさを持った雪のおかげで、ラッセルもそれ程ひどくはない。また、高森山頂上への急斜面の登りも高度差にして140mチョットと少なく、何の苦労もなく肩の部分に達した。東の方、梵天川寄りには、所々に大きな雪庇が張り出し、一部崩壊していて少し緊張させられる。と思う間もなく高森山の頂上へと辿り着いた。

頂上部はわずかに雪が消えており、その間から二等三角点と刻み込まれた石柱が顔を見せている。その他には、名のある山でよく見かけるような標識など一つなく、いかにも質素なたたずまいの頂上であった。晴れた日には吾妻から安達太良の峰々の素晴らしい眺めが多分得られるに違いない。磐梯山もきっと間近に高々と望まれるのでは、などと想像してみるだけに終わる。しかし東側に比べては西側は、雑木がやや密に茂っていて眺望はあまり良くないかもしれない。( 高森山・・・ 佐竹成夫 より抜粋)
by tabi-syashin | 2015-01-10 08:33 | iroribata | Comments(0)