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私の書棚・「いろりばた」57号

かつて南会津山の会が発行した、会報「いろりばた」の紀行文を 「デジタル化して遺そう」という私的な試み。この冬できるだけタイピングしたいと思う。だが、作者独特のおくり仮名遣いや旧漢字遣いが意外に伏兵だったりして とことん自分の常識が覆され 失笑してばかりでなかなか進まず(笑)

今回は、会報「いろりばた」57号から望月達夫さんの「阿武隈の低い山(2)」を選びデジタル化した。これで阿武隈山地の紀行文は 1話、7話、9話と三本となった。いずれも滔々とたなびく丘陵地らしい山々がゆったりと語りつくされている。是非とも全冊お読み願いたい。

版権や著作権などの権益問題がからむようなので「抜粋」の形をとった。後に目次と表題だけのインデックスを加えた。では何分宜しくお願いします。

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表紙写真 会津七ヶ岳 川崎精雄 撮影
南会津山の会「いろりばた」第57号 昭和53年7月発行


目次
表紙の写真「会津七ヶ岳」・・・川崎精雄
写真「田の神様訪問」・・・小滝清次郎・・・1
写真「枯木山」・・・川崎精雄・・・2
写真「昭和五十三年東京地区会」・・・中西 章・・・3
写真「故小山千万樹氏の写真及び手紙」・・・事務局・・・4
会津北沢岳(梵天岳)、丸山岳登頂・・・成瀬岩雄・・・5
会津朝日岳登山記録・・・成瀬岩雄・・・8
元三大師をみたら、おがんでくんねえげ!・・・田村豊幸・・・9
阿武隈の低い山(2)・・・望月達夫・・・11
「湯のいり紀行」を読んで・・・長峰芳美・・・15
昭和五十三年春東京地区会報告・・・祖父川精治・・・17
伊藤彌十郎さんを憶う・・・成瀬岩雄・・・19
事務局だより・・・20



阿武隈の低い山(2) 望月達夫

今年の正月休みは、藤島さんの病後静養による不参加という思いもかけぬことがおこって、十数年来の古い仲間の顔がまた一つ欠けた。それで村尾さん父子と白河の室君、今回から加わった横山君夫妻とわたしとの六名となった。正月の山も十数年に亘ると、深田さんや川喜多さんもいなくなって人の顔振れにも変化がおこり、しみじみと歳月というようなものを感じる。

前年の大晦日とまったく同じ九時三十一分上野発平行の鈍行におさまり、水戸で汽車弁を買って腹をみたし、平で仙台行の鈍行に乗り替え、白河から郡山廻りできた室君とバッタリ出合った。うららかな冬陽のあたっている広野で降りて、忙しそうな大晦日の街を歩きだしたのは午後の二時半ごろ。折木鉱泉に着いて旧知の若松屋に靴をぬいだのは三時半、通された部屋は偶然にも前に藤島さんと泊った同じ部屋だった。

例によって肌のスベスベする湯に入り、明日は元旦で大満員だが、今夜はそれ程でも・・・という静かな大晦日の夜をおくった。

昭和五十二年の元旦、朝の膳には雑煮餅やカマボコ、コブマキなどの正月らしいものが並んでいた。天気は昨日みたいな美しい冬晴れとはいかず、鉛色の雲がすっかり蔽っていたが、仕度をして八時半には宿を発った。主アルジに教えられた路は車道となっていて、歩くには聊か趣きがないが、一時間ほどで、五社山ゴシャザンらしい雑木に包まれたが、樹間に垣間見られる小曾根の上に達した。日陰には、いつ降ったのか雪が残っている。車道はここから少し戻り気味に尾根を越えているが、なるべく早く車道から離れたいと思っていたわたしは、歩道を見つけたので、そっちへ行こうか、然し方向が少しちがうようだが・・・と思案していたら、偶然空のタクシーが通りかかったので、統一君が走って行って運ちゃんに訊いたところ、この車道を下った橋の袂に指導標があると教えてくれた。山のなかでタクシーに道を訊くなどは、まさにアブクマらしくてよろしいと、一同哄笑しながら橋のところまで下る。

なるほど橋を渡ったところに、川上に辿る歩道が通じ、そこに五社山の道標があった。車道は川沿いに下って広野へ通じているらしい。旧い五万の地図には橋の付近から直接ジカに尾根を五社山の頂上まで登っている破線路が示されているが、今では藪がひどくて通れぬらしい。

・われわれは道標にしたがい、沢に沿って奥へ進んだ。雪がしだいに多くなったが、それ程歩きにくくもない。幅一間ぐらいの道が沢辺りへ下って細くなるあたりで一息いれたころ、幸いにも雲が少し割れて陽光がこぼれてきた。霜枯れた草が雪の上に姿を現わし、細い流れが氷を着けた岩間を流れるといった、どこにもある冬景色だが、人の全くいないことが、こよなくよろしい。

沢沿いの細路は雪にうもれていたが、よくわかり、五社山をほとんど一周するように、沢の左岸を登っていた。 破れ小屋を過ぎ、尾根に出て、そこから間もなく鞍部に達した。そこからは、反対側の箒平へ下る路もあった。

藪のはびこった尾根の上りがはじまる。路もあまり定かでない。然しそれもわずかで、われわれはブナの林に包まれた広々とした尾根にとび出した。雪が一面地肌を蔽っているので、その樹林はことのほか美しく感じられた。そこから五社山の頂上までは一投足であった。未だ小さな櫓が残り、その下に三角点標石があった。われわれは今年最初の山頂を喜びあって乾盃、陽光のあたる場所を選んで銘々腰をおろし弁当をひろげる。室君が餅を沢山入れた汁粉を作り、統一君は紅茶を沸かしてくれたので、われわれは一時間以上も滞頂してすっかり満腹した。

五社山の頂上は少し木が邪魔になって、展望は広濶とはいえないが、大滝根とおぼしい山が見え、太平洋の海が間近に望まれ、予想通り誰も人はいなかった。二日によんどころない用事があるという室君は、先に下ることとなり、あとの五人は往路はゆっくり下って三時前に若松屋に着き、三時十八分バスで折木をあとにした。このバスは四倉行なので、途中石本を通ったときは、去年の一月半ば藤島さん達とそこを通って吃兎屋山へ登ったことを思い出したが、その近くの三ッ森や猫鳴山へもいつか登ってみたいと思いつつ、振返っていつまでも眺めた。バスが進むにつれて背後の五社山もよく見えてきた。小さな山だが、今日の昼、あの頂きで六人だけが楽しんだと思えば、なつかしさがわく。

四倉で平行のバスを拾い、着飾った若人の雑踏している平駅前へ来たのは五時近くであった。十分ほど待つと高野行のバスで、それに乗って出戸デトの湯の入り口「板橋」で降りた頃は、もう真暗になっていた。畠のなかの道を歩いてゆくと、手押車をおしている老夫が、いまごろ出戸の湯へ行っても満員でダメだという。こちらはそのつもりで予約してあるんだ、と言うと、いかにも困惑したような返事が返ってきた。宿に着いて年とったお内儀に、先日電話で予約したこれこれだというと、「お客さん、お着きになるのがあまり遅いだで、もう来ないかと思って、折角とっておいた部屋は他にまわしちゃった」という。じゃあ、どこでもいいから都合してくれとたのむと、向うも困りきった様子で、どうか「離れ」で我慢してくれという。寝られる処ならどこでもい、その「離れ」というのは、母屋から十数段ほど石段を上がった六畳と四畳半の別棟で、普段はめったに使わないと見え、十燭ぐらいの裸電球がぶら下がった荒家アバラヤ、元旦に泊るにしては、ひどく風流すぎる代物だったが、古びた電気炬燵にスイッチを入れたら、どうにか少しは気持が落ちついてきた。

手の足りなさそうな宿だから、食事をはこばせるのも気の毒なので、湯に入りに行った序に、宿の人達の暖かい居間で夕食をしたため、部屋に帰って早々に寝についた。(阿武隈の低い山(2)・・・望月達夫 より抜粋)

編者注
藤島さん (藤島敏男氏)
横山夫妻 (横山厚夫氏)このころ、上州と阿武隈の山々と望月さんと同行するようなった)
深田さん (深田久弥氏)
川喜多さん(川喜多二郎氏)

田人 (たびと)
仏具山 (ぶつぐやま 670.5m 勿来)
三株山 (みかぶやま 841.8m 古殿)
四時 (しとき)
by tabi-syashin | 2015-01-09 14:26 | iroribata | Comments(0)