2014年 11月 15日
クライマー小川登喜男・伝 深野稔生 著 (みすず書房)
写真の登攀者は 当時40歳になったばかり、山も仕事もバリバリだった(笑)
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「行為なくして山はない。情熱なくしては、いかなる偉大なことも起こりえない。
山への情熱は、山に行くことの内に純化されるだろう。」
(東北帝大山岳部ルーム日誌より)
大学山岳部のノートに残された思索的な言葉が印象的だ。
また 彼は言う。
登山とは「芸術と宗教とを貫くひとつの文化現象」であり、
「強く激しい心の働きは芸術の創造における態度に」近づくと。
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「銀嶺に向って歌え クライマー小川登喜男・伝」
さっそく 読んでみたいと思う。。。
Gemute(心情・情緒)
熱情に近いがもっと静かな愛とも似た、憧憬の母であり激情の父でもある心の態度であろうか。少なくとも自分の見出したGemuteはロマンチシズムを母とする。山へ行く者は良い意味での広義のロマンチシズムがなければならないと思う。自分が生活の現実性に圧倒され、沈滞してしまう時があるとすれば、それは山を捨てるときなのだろう。
磐司沢 3度目の試登フィルムである。インスペクションも3回目となると 滝ごとに課題は決まってくる。このとりつきを繊細なフリクションと微妙なバランスとで4mほど上がれたら、クリアできたも同じ。果たして、地の底から溝を拝めるかどうか?、バランスが不全であると磨きこまれた岩に立ち込めない。 それどころか 磨きこまれた岩にいとも簡単に落とされてしまう。 F1こそが 今日の試登の可否を判ずる分かれ目となる。
磐司大滝最上段の落口が見えた。F4から撮影した貴重な写真。この時、途中に茂みがあることを知った。ということは あそこまでは登れるという実感が湧いた。この数年後、脈略もなく突如?コンクリート釘の連打で登攀した同期もいたが何ら不思議なことでもなかった。これより大きな目標に向け、己が力を試したかったのだろう。
この滝の上が 皆さんおなじみの冬季尾根、既知の磐司尾根だ。
これをみて、F5の20m滝までなら行けると思うだろうが F1のクリアが厳然とあることをお忘れなく。
お会いしたかったですね(^_-)-☆
新入会員はよく僕のことを第一印象は怖かった!って言ってました。面倒見は良かったと思っていますが、局面局面での心理的弱点を突いてくるって・・・(笑) 。会長からは 組織運営に関して何か一言いわずにはおかない男!って総会時には毎年言われてました。原理原則を破るのが嫌いって そんなウルサガタのイメージであったそうです。酒を飲めば人一倍大酒飲みで(笑) 次回山行のヒントになるようなことを酒席で言っていたそうです。そりゃそうです 常に温めていましたから。全体的にどうかという観点で物事や関係性を観ていたつもりなので そうそう会員とぶつかることはありませんでしたが しかし唯一嫌いなタイプがいると釈然としないわけです。例えば、「おのれの山を持たない会員」「付いていくだけの会員」には、何のために山岳会に入ったのか?ってね(笑) 余計なお世話です(爆) 退会した原因は 「しがらみ」に弱いことが最大の原因。海外遠征組の遭難事故などもあって 「山岳会とは何だろうな?」という振り返りがあり退会しました。